牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

流動性と多様性

網野善彦の逆さ地図を見ると、東海(日本海)が内海で、列島は連なり、日本が孤立した島ではなく、人間を自由に行き来させる連なった場所に見えている。国境や日本民族という概念は、いっそ消滅する。

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網野善彦 地図

また小熊英二は民族ということば自体が中国へ逆輸入された差別用語であることを指摘する。先の戦争で、大和民族を優れた民族に仕立て上げ、侵略を正当化するために作られた差別用語だ。たかが千年程度同じ場所にいただけの人々を民族で区切った。人種は同じだし、文明度でいえば、中国や朝鮮の方が上であるから、新たに大和民族という架空の民族をでっち上げて、自らが優れているという嘘をついた。

日本は台湾統治時期、未開で野蛮な民族を生蕃と呼び、漢民族に同化したものを熟蕃と呼んだ。木山英雄先生によれば、中国には熟蕃ということばはない。中国自体が本家本元であるからだろう。日本はいうなれば漢民族化を本家に代わってやっていたというわけだ。一方中国文学研究者も大きなスパーンでの漢民族化を従属的に進めていはしまいか?特に日本の中国現代文学研究者ポストは、中国古典文学と1:1という割合を中国の大学に合わせて進めている。だが中国の側は中国共産党が意図した党の宣伝を現代文学が担わせるためだった。だが魯迅をまじめに読んでいけば、当然、反体制的な姿勢を学ぶことになり、結果、64天安門事件の学生たちの民主化要求に繋がっていった。党は失敗している。文学がダメなら美術、今は各大学に美術学院を設けてビジュアルからの党宣伝を意図しているようだ。では日本の中国現代文学研究はどうあるべきか。やはり抵抗の姿勢を失ってはいけないのではないか。単に中国の文学の素晴らしさを言うだけならそれは熟蕃に過ぎないだろう。

現在、中国政府は正に未熟な民族を教化し、同化させようとしている。それはウイグル弾圧に明確に表れている。野蛮な民族を漢民族化しているというわけで、多様な意見や宗教、生活スタイルを認めようとしない。全てを一色に染め上げようとする。

林少陽の孫引きになるが、章炳麟の斉物論釈 「斉其不斉、下士所鄙執。不斉而斉、上哲之玄談。」(斉しくないものを斉しくさせるのは愚かであり馬鹿にされる故である。それに対して斉しくないものを斉しいとするのが賢者の優れた選択である)

つまり文学とは「あや」模様であり、それぞれが違うのがいいのである。そして多様なあり方を認め合うことが大切なのだ。強制的にすべてを平坦化することは誤りである。それは体制側の政治に他ならない。マイノリティが自由に生きていけることこそが重要であり、すべてはそこの向かっているはずである。日本自体が元々漢文化のマイノリティなのだから、そちら側につくのは当然のことだろう。

テニスプレーヤーの大坂なおみさんも人と違うことはクールなことだと言っている。そう、その多様性が正に未来への道筋だろう。

小熊英二インタビュー「有色の帝国」の呪縛 『朝日新聞』2020年9月10日(木)13p『九葉読詩会』第6号 2021年3月 参照