14日(月)ZOOM授業 1限中国語22課修了2冊目の1課を少しやりました。2限 文化論 葉さんの発表、農協ついて
16日(水)対面授業 3限 演習 中国のプロパガンダ芸術序章 4限 特殊講義 私の中国映画体験 1980年前後、池袋豊島区公会堂 中国映画上映会 北京語言学院 五道口工人倶楽部 小花(戦場の花) 駱駝祥子
14日(月)ZOOM授業 1限中国語22課修了2冊目の1課を少しやりました。2限 文化論 葉さんの発表、農協ついて
16日(水)対面授業 3限 演習 中国のプロパガンダ芸術序章 4限 特殊講義 私の中国映画体験 1980年前後、池袋豊島区公会堂 中国映画上映会 北京語言学院 五道口工人倶楽部 小花(戦場の花) 駱駝祥子
昨日3限 演習 嶋田さんの発表 連環画、「山海経」について 地理書、SF、怪獣
様々な要素、連環画、廃棄される書物にこそ研究の意味がある お菓子の付録、空き缶、カップ麺の蓋…
4限 特講 趙さんの発表 張藝謀「あの子をさがして」教育問題、農村の貧困、ドキュメンタリー映画への方向性、ラストのハッピーエンドは要らないか
1957年:
5月18日詩人の艾青とその妻の高瑛との間に北京で誕生。戸籍上は8月28日になっている。子供の誕生日を忘れるほどに混乱していた、と艾未未(アイ・ウェイウェイ)が言う理由だ。1930年代にパリで絵画を学んだ艾青は左翼詩人。艾青の詩は時代の象徴となった。
1958年:
艾青は共産党から「右派分子」の烙印を押され、黒竜江省、ゴビ砂漠の新疆ウイグル自治区に追放された。艾未未1歳。
1966-76年:文化大革命。艾青一家は「労働者階級の敵」として不遇を経験し、艾未未は父と共に強制労働に従事。艾青は村の公衆便所の清掃をする。
1976年:
毛沢東の死後、艾青の名誉は回復し、北京に戻る。
1978年:
艾未未、北京電影学院に入学。前衛芸術グループ「星星画会」に参加し、1978-79年の民主化運動が弾圧されるのを目撃する。
1981年:
艾未未、渡米。1983年にニューヨークへ移りパーソンズスクールオブデザインに通学、退学。その後様々な仕事をする。詩人アレン・ギンズバーグと交流、自分の体験を1万点以上の写真として記録した。多くは当時の抗議運動に焦点が置かれている。
1985年:
イーサン・コーヘン・ギャラリーでアイ・ウェイウェイの初個展を開催。
1989年:
天安門事件。艾未未は、国連本部ビル前で座り込みハンガーストに参加する。
1993年:
父の病気のため、北京へと帰国する。
1994年-7年:
影響力の高いアングラ美術書『黒皮書』『白皮書』『灰皮書』を出版。欧米の現代美術を紹介し、中国の前衛アーティストたちを支援する。
1996年:
1999年:
北京郊外の草場地に自宅を兼ねるフェイク・スタジオを設計・建築。建築家としてのキャリアの起点となった。
2000年:
上海で「死体派」を輩出し物議を醸した「何者にも与しない Fuck Off」展を開催。
2003年:
スイス人建築家、ヘルツォーク&ド・ムーロンと初対面。2008年のオリンピックスタジアムのためのデザインエントリーを共同制作。後に「鳥の巣」スタジアムとして知られることになる。
2007年:
6月:ドクメンタ、艾未未は1001人の中国人をカッセルに呼び寄せるプロジェクト「童話」を行う。
2008年:
5月12日:四川汶川大地震。小学校の手抜き工事のために5000人以上の児童が命を落とした。艾未未は実態調査・記録を始めた。
8月9日:ガーディアン紙で北京オリンピックを政治プロパガンダであると糾弾。
2009年:
5月12日:四川大地震の一周年。艾未未はブログで5,000人以上の生徒たちの名前を発表。
5月29日:深夜、艾未未のブログが当局により閉鎖される。
8月12日: 午前3時、成都市のホテルに宿泊していたところ警察に襲撃される。艾は地震被害者調査をしていて逮捕された譚作人(タン・ズオレン)裁判の証人として同市に滞在していた。
9月14日:艾未未はミュンヘン大学病院に入院し、脳内出血の治療を受診。単独美術展としては過去最大規模となる個展「So Sorry」のためミュンヘンにいた。
12月25日:作家の劉暁波(リウ・シャオポー)は「国家政権転覆煽動罪」により懲役11年の判決が下された。艾未未は「零八憲章」に署名した。
7月25日:森美術館で個展「艾未未:何に因って?」開催。以後本人不在のまま世界を巡回する事になる。
2010年:
10月8日:劉暁波がノーベル平和賞を受賞。艾未未は磁器製のヒマワリの種を一億粒敷き詰める「ひまわりの種」制作のため、ロンドンに滞在していた。艾は賞の重要性をマスコミに語った。
11月7日:艾未未の上海スタジオが上海当局によって解体される。これを“祝賀”する河蟹パーティーが催された。北京当局は、艾を自宅軟禁した。
2011年:
4月3日:北京首都国際空港から香港へ向かおうとしていた艾未未が拘留され、行方不明となる。
5月4日:ニューヨークで、艾未未のブロンズ彫刻「ひと周りの獣」が展示された。後にロンドン、ロサンゼルス、は台北でも展示された。
6月22日:艾未未が81日ぶりに解放され、北京の自宅に帰宅。拘束中は、2人の監視役が24時間ずっと傍らに立ち、トイレにいるときも就寝時も見られ続けるなど、精神的虐待を受けていた。中国当局は脱税容疑で取り調べをしていたと主張。以降艾は自宅軟禁される。
10月:アートレビュー誌は最も力のある芸術家100人の首位に艾未未を指名。
10月29日 台北市立美術館で「艾未未:欠席(Absent)」展開催。
11月:税務当局は艾未未に、未払税金と追徴金2,400万ドルの請求書を送り、この請求書の合法性に異議申し立てをするのなら、2週間以内に半額支払うようにと命じた。中国内の支持者たちは、振込んだり、紙幣を紙飛行機にして自宅に投げ込んだりして送金した。艾未未は1200万ドルを支払い、法的な対抗を継続する。
2012年:
1月22日:サンダンス映画祭で『アイ・ウェイウェイは謝らない』プレミア上映。
4月3日:拘留された日から一周年。15個の監視カメラを更に増やして24時間放映。監視を監視する。
6月20日:自分の脱税容疑裁判に出廷しようとしたところ警察に阻止される。
6月22日:保釈期間が過ぎたが、アイ・ウェイウェイのパスポートは返却されない。
10月:ワシントンでアイ・ウェイウェイ展
10月24日:YouTubeに「草泥馬style」を発表。手錠に繋がれて左小祖咒(ズオシャオズージョウ)と踊る。
2013年:
5月17日:香港で2008年の毒ミルク事件を考えさせる作品「ミルクの国」を発表。
5月22日:YouTubeに左小祖咒とヘヴィ・メタルアルバム「神曲」発表。獄中の様子を再現する。
6月:ヴェネツィアビエンナーレで四川大地震跡から集めた鉄筋150tを真っ直ぐに伸ばした作品straightや、獄中のもようをジオラマにした S.A.C.R.E.D を発表。
10月:トロント屋外で3144台の「永久・自転車「forever bicycles」作品を展示。
2014年:
4月:ベルリン、ニューヨークで艾未未展。9月27日:サンフランシスコ湾にあるアルカトラズ島の監獄跡で個展開催。
4月30日、『上海CCAA中国当代芸術賞15年展』の開催20分前に、2008年の終身最優秀賞(傑出成就奨)受賞者、および第1-3回評議審査委員であった「艾未未(アイ・ウェイウェイ)」の名前が会場の壁から消された。
さらに一ヶ月後の5月23日、北京798ユーレンス現代美術センター(UCCA)でオランダ人の中国現代美術研究者、戴漢志(ハンス・ファン・ダイク)についての展覧会『戴漢志 Hans Van Dijk ハンス・ファン・ダイク(1946-2002):5000の名前』展が開催された。しかし先の『CCAA中国当代芸術奨十五年』展と同様に艾未未の名前が隠された。案内状の写真からも艾の姿は切り取られた。艾未未はこれに抗議して作品を撤収した。
2015年:
6月6日(土)-9月6日(日)『艾未未』大山子798芸術区 当代唐人芸術中心および常青画廊
7月22日:「パスポートを取り返した」と、艾は自らのパスポートと写真をインスタグラムで公表した。艾は2011年4月3日から6月22日までの81日間の拘束以来4年3カ月余りも中国政府の監視下に置かれ、国内に閉じ込められていた。
9月19日から(12月13日まで)ロンドンのロイヤル・カレッジ・オブ・アート(RCA)で美術展が開催されることになっていた艾は、6カ月のビザを申請したが、イギリスは「犯罪歴」を申告しなかったとして、わずか20日のビザしか発給しなかった。それでは開幕までしか滞在できない。艾は中国政府に秘密裏に拘留されたことはあるが、起訴されたことも有罪判決を受けたこともないと主張した。艾は7月30日、4年間有効のビザ発給を受けたドイツにミュンヘンから入り、息子、艾老(アイ・ラオ)の待つベルリンに向かった。
7月31日:イギリス政府は「不快な思いをさせたことに対する謝罪」の書簡を艾に送り、6カ月のビザを発給した。
9月17日:艾未未とアニッシュ・カプーアが難民用の毛布を羽織ってロンドンの街をデモ行進した。
10月3日:母親である高瑛(1933生まれ)の肺炎が悪化し、艾は北京に戻る。翌日4日、スタジオの内装工事をしようとしたところ、コンセントから盗聴器が見つかる。
10月23日:艾はメルボルンの国立ビクトリア美術館で開催される『Andy Warhol – Ai Weiwei』展(12月11日-2016年4月24日)で展示する作品制作のために、LEGO社に大量のブロックを注文したが、同社から「政治的、宗教的、差別的、品位を乱したり、中傷的である」創作物に使用されることは容認出来ないという理由で提供を断られた。艾の作品は劉暁波や浦志強ら世界の「政治犯」と見なされた人々の肖像をレゴブロックでつくるものだ。艾はLEGO社が販売を拒否したことについて、「検閲と差別に当たる」と非難した。また、艾はレゴブロックをトイレに流す写真や、髪や髭にブロックをぶら下げた写真をインスタグラムに掲載。車を使ってレゴブロックの集積所をつくり、人々から不要のブロックを集め始めた。
2016年:
1月16日から3月15日まで、パリのデパート、ボン・マルシェで行われた展覧会『AI WEIWEI ERXI』で、艾未未は「山海経」に登場する怪物たちをモチーフにしたインスタレーション作品を発表。
ギリシャのレスボス島の難民キャンプを見舞い、レスボス島にスタジオを設けた。
デンマークの新法案、難民の財産没収法案の可決に反対して美術展を撤収した。
2月のはじめ、昨年溺死したシリア難民の男の子アイラン・クルディ君(3)の写真の姿を模倣した。「子供の運命はあの人々のゴールラインだ。」
2月13日:艾未未はベルリンのコンサートホール「コンツェルトハウス」の円柱にギリシャのレスボス島から集められた1万4千の救命胴衣を飾り付けた。また柱の間に置かれた難民の使ったゴムボートに「SAFE PASSAGE(安全なルートを)」と記した。
難民の状況についてドキュメンタリー映画『人流Human Flow』を制作。25の撮影クルーがバングラデシュ、フランス、ギリシャ、ドイツ、ハンガリー、イスラエル、イラク、ヨルダン、ケニア、レバノン、マケドニア、メキシコ、トルコを含む22の国で撮影を行い、40に上る難民キャンプを訪れ、難民、NPO、ボランティア、政治家を含む数百人に取材した。
2017年:
10月12日:アイはニューヨークで「いい壁はいい隣人をつくる Good Fences Make Good Neighbors」を発表する。
2018年:
ドキュメンタリー映画『人流Human Flow』公開。
2019年:
アイが制作に加わった映画『ベルリン・アイ・ラブ・ユー』(2019)がベルリン国際映画祭への出品を拒否された。
映画祭の主なスポンサーはフォルクスワーゲン社、アウディ社などだが、ここには中国の企業も加わっている。
7月、アイはフォルクスワーゲンデンマークを知的財産権侵害で訴え、勝訴。アイには承諾なしに、オレンジ色のポロの新車にアイの作品(日の出2017)を背景に使った広告について訴えた裁判で、175万デンマーククローネ(約2800万円)の賠償を受けた。
2020年:
新型コロナウイルス感染を防ぐために封鎖された武漢のまちを描くドキュメンタリー映画『Coronation』公開。
香港問題を描く作品を制作中。
艾未未 Ai Weiweiについては(もぐさ・未来)がい・みみ、アイ・ウェイウェイ で検索
ARTiTアートイット→ Magazine→ 連載→ 艾未未
1限 19課を行いました。来週は休みですが、自由参加の復習17~19課
2限 死体派
死体派へ
こうした方向はエスカレートし本物の死体を使ったものが多数出てきた。孫原(スン・ユアン)は1998年、雪の草原に血の付いた骨を散らした「牧者」、1999年、老人と嬰児の死体を使った「Honey」を発表。更に2000年彭禹(ポン・ユィ)との共同で歯を剥き出しにした犬の剥製の頭部に強いライトをあてて燃やす「霊魂をも殺す」をつくっている。また蕭昱(シャオ・ユィ)は「●ruan」(豸へんに自水十とたてにならべる文字)(1999年)で人間の胎児の頭部、鳥の羽、兎、猫、鼠の標本を継ぎ合わせた[1]。[図9]これらの猟奇的な作品は「もの」と化した人体の極北を見せる。中国で簡単に死体が手に入る不思議、人体に宿る精神性、奇異をてらうのにここまでしていいのか、アートがモラルの範疇へどれだけ介入できるのか、多くの疑問を提示した[2]。
方法 『埼玉大学紀要教養学部』「集広舎HP」など
第六回:比較 中国現代アートの既視感
「中国と日本の現代アートを比較する」埼玉大学紀要. 教養学部,46(1),249-261 (2010)
SUCRA埼玉大学情報発信システム
キュピキュピ「キャバロティカ」映画「薔薇の葬列」ゼロ次元 趙半狄「一人ぼっちのオリンピック一个人的奥运会」ヤノベケンジ
[1] 蕭昱(シャオ・ユィ)「Ruan●(豸へんに自水十と縦に並べた文字)」1999年 艾未未(アイ・ウェイウェイ)・馮博一(フォン・ボォイー)・華天雪(ホア・ティエンシュエ)『不合作方式FUCK OFF』上海東廊芸術2000年
[2] 詳細については第三章6で取り上げたい。
2限は11:30に修了して、熊谷女子高校へ出張模擬講義「アイ・ウェイウェイ」
日本・アジア文化論7(オムニバス授業、7,8回を担当)
「不在」と東アジア現代アート『埼玉大学紀要教養学部』56巻1号2020年
(全文は近くSUCRAで公表されます)
不在をキーワードにして中国、韓国、日本の作品を比較検討する。まず岳敏君の「無人の風景シリーズ」と小泉明郎の「空気シリーズ」を取り上げて、その影の持つ不可視性について考察する。さらに空っぽの椅子の表象に注目し、キム・ウンソン & キム・ソギョン「平和の碑」から対話への希望と不戦へのメッセージを見出す。また不戦の具体的な意図を銃の表象に求め、小沢剛「ベジタブル・ウェポン」や尹秀珍「時尚恐怖主義」に共通する危機感を考察する。最後には二重の不在である毛同強「我有一個夢 I Have a Dream」を取り上げて、不可視的な観念の世界で結びあう可能性がある事を指摘する。
中国語 18課を行いました。
文化論2
第五回、北京東村のパフォーマンス・アート―政治暴力に対峙する身体
建国以来、市場経済下のシニカル・リアリズムにいたる現代アートの紆余曲折を見てきた。この章では1993年に誕生したアーティスト村「北京東村」を中心にパフォーマンス・アートの動向をみたい。そしてアートのもつ意味についても考察したい。
天安門事件が与えた後遺症は「知識人の周縁化」を促進したことだろう。中国を救おうといういかに優れた言論も、武力の前では無力に等しい。われわれの英知は、文化は何のためにあるのか、こうした虚無感の逃げ口がポップ・アート、シニカル・リアリズムであったことは前章で述べた。現代文化研究者の一部も政治性を回避して古典研究へと転身した。こうした現象が中国の二つの伝統、古典的伝統と革命伝統に遠因することは言うまでもない。だが、悲しみをかみしめるような彼らの諦観(ていかん)は理解できるとして、このままでいいのだろうか。
一方現体制を皮肉る政治的な身体の表出は依然として中国の地下芸術の焦点として継続していった。六四以降1990年代の現代アートが海外の注目を浴び、国際展などに多くの作家たちが参加したのは周知のとおりである。だが彼らの仕事は国内では完全に無視されている。文化部や美術家協会などの官方(グアンファン)(体制側)はパフォーマンスやインスタレーションといった現代アートの方法を禁じ、自由な展覧会の開催を許していない。たとえ文化部と公安の許可を得ていても、開催当日に禁止になるような理不尽な出来事も繰り返されていた。だから当時美術展はゲリラ的に行われていた。秘密裏に準備を重ね、開催当日に手分けして関係者に電話し、当日の内に跡形もなく片づけられる。当然表現の幅は制限されてしまう。こうした状況を逆手に取って特異性を打ち出したのが東村のパフォーマンスだった。
血の粛清六・四天安門事件を経た1993年から1995年、北京東郊外の農村、大山庄に地方から20数人のアーティストが集まってきた。彼らは裸体による過激なパフォーマンスを展開した。それは観念を具現化するような知的な行動ではなく、あくまでもナンセンスで狂気に満ちたものだった。また、「救国からの挫折」というインテリ的思考ともかけ離れたものに思われた。また一回性のパフォーマンスは証拠の残らないアートとして公安の検閲を逃れることができた。だからアングラ(地下芸術)にとって都合がよかった。
裸体である理由は「弱くもろくはかない」身体によって政治暴力に対峙してみせるというアートの姿勢そのものと言える。それは1989年六四天安門事件の際に一人で戦車の前に立ちはだかった男の行動にも共通している[1]。何も身にまとわないことは無防備であるからこそ、犯しがたい人間性が打ち出される。さらにそこから表出される猥褻さは、規律を守る体制の側に対する「抵抗の意志」の表現でもあった。彼らは政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムを生んだ圓明園芸術家村や後の中国キッチュ通県アーティスト村とは対照的に作品の商品化を拒否した。
たとえば1994年張洹(ヂャン・ホアン)は裸のまま公衆便所に一時間座り続ける「12平方㍍」、小屋の梁に水平に鎖で身体を固定して、腕からぬいた血を煮えたぎらせる「65㌕」といった衝撃的で自虐的なパフォーマスを行った[2]。[図1、2]
また馬六明(マァ・リウミン)は「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)」のシリーズ(1994-95年)で張洹(ヂャン・ホアン)の自虐的な表現とは対照的に加虐的な表出を試みる[3]。[図3]髪が長く、華奢で女のような容姿、あらわになった男性器は両性具有であるかのように性のはざまに漂う。裸体の馬六明(マァ・リウミン)は魚を活きたまま煮たり、焼いたり、宙吊りにしたりする。「魚水の情」は古来、「魚と水」のように「男と女」そして「為政者と家臣」が親密であることをたとえた。さらに毛沢東時代には「解放軍と人民」の親密さを示す。とすれば、この表現が性差ばかりか軍への批判的行動とも深読みが可能だろう。その男女の性差のはざまに晒された「他者としての身体」は異形による救済さえも意図し始める。
マッチョな筋肉質の肉体をもつ張洹(ヂャン・ホアン)はその体を痛めつけるマゾヒスティックな行為を繰り返す。また馬六明(マァ・リウミン)は女の顔と手をもつ両性具有的な肉体でのサディスティックな表現を通じて性差の問題を衝撃的に表出した。パフォーマンスにおいて張洹(ヂャン・ホアン)と馬六明(マァ・リウミン)は肉体と行為が互いに交差する対照的な存在で、規制の行為や肉体の暴力性を無化あるいは逆に強調させてもみせた。
朱冥(ヂュー・ミン)は1996年以来、泡やバルーンを素材に作品を作り続けた。行為そのものもはかないが、気泡もまたできては消えていく。そこには生そのものの刹那性をも読みとれよう。透明なバルーンの中に横たわる脆弱(ぜいじゃく)な裸の身体は、一切のコミュニケーションを絶ち、母体回帰していく胎児にも見えてくる。ひきこもっていく内向性を顕にしていった。進化ではなく退行を志向していくのである。
彼らの「いかがわしい」所作は当然ながら「社会主義中国の健全な人民の規律を守る」べく、官憲の制裁を受けることになる。1994年6月12日馬六明(マァ・リウミン)と朱冥(ヂュー・ミン)は逮捕監禁されそれぞれ二ヶ月、三ヵ月の入獄。同じ6月の30日、張洹(ヂャン・ホアン)は私服警官らしき身元不明者に頭部をビールジョッキで殴打され、頭から耳にかけて数十針縫う全治数ヶ月のけがをする。集中的に狙われて警察に取り締まられたものと思われる。
張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「65キログラム」は屋内だし、馬六明(マァ・リウミン)の「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)のランチ」も院子(四方を囲まれた庭)で行われている。一定の観衆しか見てはいない、アートなのだから罪には問われないはずだ。だが何よりもまず当局はアートが理解できない。単に人の集まることに異常なほど敏感なのである。そこまで異端を恐れるのは、当局自体が脆弱な基盤に立っているという証拠にもなる。
結果、東村は解散に追い込まれ、張洹(ヂャン・ホアン)は1998年の「インサイド・アウト」展でアメリカに招聘されて以来ニューヨークからもどらない[4]。馬六明(マァ・リウミン)は国際展の常連となり内外の評価が高まるにつれて陰湿な加虐性を弱めていく。だが筆者も出かけていった2000年韓国光州ビエンナーレでは強力な睡眠薬を飲んだ後、観客と写真撮影をしていくうちに意識がなくなる、という危険な表出を行った。朱冥(ヂュー・ミン)もまた海外への招聘が多くなり日の当たる場所に出てきたが、狂気は依然孕んでいて、バルーンの中で有毒な蛍光塗料を全身に塗り、暗転させて暗闇に子宮の中の「みどりご」を浮き立たせるという危ないパフォーマンスを持続している[5]。[図4、11、12]
「地下芸術」的色彩を濃厚にした彼ら東村は、異形としての自らの肉体そのものの存在を問い続けた。彼らのパフォーマンスは一見荒唐無稽なものに見えるが、十分に計画を練った上で実行に移されている。実は非常に計算された原初的身体の再現だったのである。そして人間の性差・生成という従来当たり前のように考えられてきた行程を、逆行させたり、断絶させたりして、いったんは破壊し、また独自に再構築させてもいたのである。その衝撃的な身体性は中国の特徴的なパフォーマンスをつくりあげた。
彼らの表現は非常に単純で、ベーシックなものだった。しかしそこで取りあげられた人間の生と死、身体そのものとか、男と女の性差の問題、加虐あるいは被虐への心的嗜好の問題、回帰願望というものは実に根源的な人間の存在への問いかけだった。
行為だけを見れば、日本や欧米の現代アートが通過してきたことの「まねごと」に映るかもしれない。しかし彼らに過去の情報は皆無で、行為を反復したという意識はない。だからこそ情報に埋もれたものにとって、今さら気恥ずかしくてできないような大胆で原初的な表出が可能になったのだ。
また彼らの行為の生まれ出る文脈が全く異なっている。彼らの示した身体、それは中国の古典的伝統的美の架空の身体、さらに革命伝統、毛沢東様式が強いてきた革命的で強靭(きょうじん)な身体からも解き放されたものだった。そしてそれは同時に欧米の現代アートがアートを概念性表出の「知恵試し」のように取り違え邁進(まいしん)する中で忘れ去ってしまった本質的な身体へと立ち返ってもいたのである。それは「脆弱(ぜいじゃく)なる身体」で世界に、そして政治暴力に対峙するというアートの重要な姿勢でもあったのである[6]。
東村のパフォーマンスの持つ不条理性と諧謔(かいぎゃく)性は集団のパフォーマンスにも表れている。1995年、東村の張洹(ヂャン・ホアン)、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)、蒼鑫(ツァン・シン)、詛咒(後にミュージシャン左小祖咒)ら、東村の10人のアーティストは北京郊外の山へ行き「ナイン・ホールズ」「無名の山を一㍍高くする」[図5]というパフォーマンスを行った[7]。前者は山の中腹に各自がサイズに合った穴を掘って、大地と性交するもの、後者は題の通り山頂に体重の順に重なって山を一㍍高くするものだ。実に単純でばかばかしい表現だが、自然な人間の身体はこんなにも美しいのかと思う。また血の通った身体のぬくもりや、血管の中に流れていく血の音が聞こえてくるような静寂さえ伝わってくる。諧謔性の際立つ表現である。崇高なもののように思われていた身体が「もの化」される。だがこうした行為から相互の身体の同質による共鳴、再理解が始まっていた。
東村以外では宋冬(ソン・トン)が1996年「息を吐く」[図6]で厳冬の深夜、天安門広場に俯せになって敷石を自分の息で凍らせているというパフォーマンスを行った[8]。同年「川に印を捺す」ではチベットのラサ川で「水」と刻まれた巨大な木印を川に捺す行為を一時間続けた。
また劉瑾(リウ・ジン)は昨年大きな甕(かめ)に醤油を満たして裸で豚を抱いてその中に入ってチャーシューをつくろうとしたり、大きな甕にコカ・コーラを入れて入浴したりするパフォーマンスを行った[9]。[図8]ばかばかしい行為の繰り返し、肉としての身体と物質を或いは観念を対照的に、時にはそれらを混同し、境界を揺さぶってみせるが、作家の真剣さとは裏腹に何とも言えないおかしさ、諧謔(かいぎゃく)性が滲み出てくる。
身体性を集中し肉そのものへの追求に向かうのは顧徳鑫(グゥ・ダァシン)が最初だろう。特に1998年1月の床一面に豚の脳味噌を並べていく作品や一見美しい深紅のバラの花弁に肉塊が潜んでいる作品は衝撃的だった[10]。
[1] たとえばその時の写真は『天安門一九八九』台湾 聯経出版事業公司 1989年8月に掲載されているし、映像はカーマ・ヒントン、リチャード・ゴードン監督ドキュメンタリー映画『天安門』(1995年)にも収められている。東村のアーティスト蒼鑫は1994年12月「踩脸」(顔を踏む)というパフォーマンスを行っているが、六四天安門事件をイメージさせる作品である。『解放——温普林中国前卫艺术档案之八零年代』2008年3月のパフォーマンス・ビデオ参照。
[2] 榮榮(ロンロン)「北京東村」(張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス)1994年 Dislocation Volume 7 New Beijing Photography : Hong Kong 1997
張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「12平方メートル」1994年3月31日Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998
1994年6月14日、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)が逮捕され、同月30日には張洹(ヂャン・ホアン)が頭部を殴打される。<Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5
[3] 馬六明(マァ・リウミン)「FISH CHILD」1996年撮影:榮榮(ロンロン) <Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5
[4] 2008年ごろ、上海に工作室をつくった。
[5] 朱冥(ヂュー・ミン)によるパフォーマンス「1999年3月10日」(NIPAF名古屋) 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05
朱冥(ヂュー・ミン)「2000年7月28日」(ドイツ・ベルリン・世界文化センター)艾未未(アイ・ウェイウェイ)・馮博一(フォン・ボォイー)・華天雪(ホア・ティエンシュエ)『不合作方式FUCK OFF』上海東廊芸術2000年
「海辺に横たわる朱冥(ヂュー・ミン)」作家提供
[6]補遺:朱冥(ヂュー・ミン)の場合 ところで、東村に集まったアーティストたちはどんな経歴を持っているのだろうか。朱冥(ヂュー・ミン)を例に解説したい。彼はなかなか面白い体験をしている。1972年湖南省の生まれ、1991年、母親に300元もらって北京に出てきたという。(1元=15円ぐらい)その前は、高校中退して乞食修行などをやっていた。上京後は美術のモデル(半日6元)や交差点に停まった車を勝手に磨いて金を請求するというアルバイトをした。1993年に中国美術館で個展をやることになって、一日300元、一週間分の借料を友人に借金をして支払ったという。東村に参加。1994年6月、馬六明(マァ・リウミン)のパフォーマンスの手伝いをしていたところ逮捕され、投獄三ヶ月。一日中電灯が点いている独房で、昆虫採集をし、閑にまかせ、昆虫ネックレスをつくる。檻の中では美術工作者を自称し、このため獄中の仲間に請われるまま龍や虎、刀の絵を刺青のデザインとして提供した。釈放後、北京へ戻る。洗濯中に「泡」を表現媒介にする方向性を見出し、裸で土の中、泡の中に入る作品をつくる。1997年昌平県にある工場に大きなバルーンを特注する。(120元かかったという)バルーンを使った作品で注目され始める。ところが雑誌で「キノコで大儲け」という記事を読み、湖北省まで行き、菌を100元分購入し、一年実験するが失敗し、アート活動に戻った。1999年先のNIPAFの招きで初めての海外日本へ、蛍光塗料を全身に塗ってバルーンの中に横たわる作品で、絶賛を浴びることになる。呉文光主編『現場 第一巻』天津社会学院出版社 2000年11月 参照。
[7] 北京東村のアーティストたちによるパフォーマンス「無名の山のために1メートル高くする」1995年5月22日 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年
[8] 宋冬(ソン・トン)「息を吐く」1996年北京 温普林(ウェン・プゥリン)『中国行動―八十年代到九十年代的行為芸術』北京風馬旗文化伝播有限公司 2000年
[9] 劉瑾(リウ・ジン)「コーラ風呂」2000年8月28日 舒陽(シュー・ヤン)編『第1届 開放芸術平台-行為芸術』 香港・新世紀出版社
[10] 顧徳鑫(グゥ・ダァシン)「1997年6月16日」北京『中国新鋭芸術』中国世界語出版社1999年7月