3限演習 山本さん、滝沢さんの卒論発表 南京大虐殺をめぐって、日中関係について
お土産に馬場公彦さんの著作を2冊、他、重い。
4限特殊講義 ぺジオンさん発表 South Park の Band in China 2019 風刺アニメ
rebel pepper 变态辣椒 🌶 の風刺漫画 政治と結託した中国資本 対 トランプ政権
さて、バイデン 対 トランプ の大統領選の結果は出ているが… どう変わるか?
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1限 中国語 17課 時間曜日の言い方など。
2限 文化論2艳俗艺术 CHINA KITSCH チャイナキッチュ
第四回、チャイナ・キッチュ―醜い現状 批判と認可
1990年代半ば、政治的ポップ・アートの政治性は一挙に去勢され、大衆消費社会の快楽が前面に押し出された。それが中国キッチュである。
キッチュは「まがいもの」、くいだおれ、かに道楽の看板が氾濫する大阪道頓堀あたりのイメージだろう。代表的な作家ジェフ・クーンズ[1]のステンレス製の風船うさぎやパンジーでできた巨大な犬のぬいぐるみ、陶器製のマイケル・ジャクソンとチンパンジーのバブルスなどが想起される。巨額を投じて無意味なものをつくる、またこうした無意味なものを愛でるみうらじゅん[2]の様な姿勢をいうのかもしれない。
作品のオリジナリティーやアウラ(作品の放つ力)高尚さを信じた近代美術はこうした享楽的で不遜(ふそん)な遊戯によって全面否定された。醜悪で悪趣味、無意味な反復。彼らにとってアートは大衆の先に立って人々を先導する存在ではない。大衆の後から彼らの好む記号を拾い集め、それを再構成してみせる単なる収集癖のようにもみえる。
中国キッチュは画面にうまそうな中華料理、コーラやスプライト、ハンバーガー、カラオケマイクにケータイ、カメラ、CD、エアロビクスやボディービル、グラビアの水着姿の女性、怪しげな豊胸器具の広告、夢の海外ツアー、かわいいペット、山水画の掛け軸、骨董の壺など雑多なモノを登場させた。これらの品々は我々の欲望の対象である。そしてモノによって我々の人生も評価され、モノを手に入れることが生きる目的ともなる。人とモノとの関係、消費社会の快楽。これらの記号は読み解くことを誘惑する。誘惑に乗って解読をすすめてみたい。
まずいえるのは過剰なあまりにも過剰な表現だ。誰もがこの画面を見たらそう感じるだろう。目を射すような原色の氾濫、荒唐無稽に溢れるモノ、モノ、これらは中国人特有の派手で過剰な幸せのシンボルなのだろうか。
中国キッチュの先達となったのは余友涵(ユィ・ヨウハン)の「毛主席が韶山農民とお話になる」(1991年)[3]だろう。これは1959年、32年ぶりに里帰りした毛の写真を元に、農民の好む花柄プリントを重ねる。政治的ポップ・アートの政治性よりはむしろ意図的なダサイセンス、かっこわるさを重視している。[図5,6]
1996年、集中的に中国キッチュの美術展が開催される。彼らの根拠地は「通県アーティスト村」である。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムの「圓明園アーティスト村」が閉鎖された後、彼らは北京市街から東へ50キロぐらいに位置する通県の農村(通県宋荘)に移り住んだ。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズム同様に平面に固執し集団でキッチュな作品=後衛的作品を量産している。
極彩色で、通俗的な水着の美女や様々な商品、中華料理や白菜を描く。大衆の先端に位置して現代アートの過激な実験を展開する前衛的なアートとは対照的に、大衆の後からマス・カルチャーを拾い集め、再構成する。ここには消費社会の新たな大衆への期待と嘲笑、消費文化への賞賛と批判が複雑に入りくんでいる。
毛沢東様式の希望に満ちた農民の姿は理想上のものであり「想像上の客体」でしかなかった。彼ら中国キッチュの作家たちは、こうした毛沢東様式の「正しい」大衆像を拒否し、軽薄な成金農民の姿を悪趣味で醜く描いた。中国キッチュは意識的な学究的姿勢で大衆文化の歴史的な検証を提出していく。彼らは戦略的意図を顕にし、批評家の論争を誘発する。用意された解釈は、ハイ・アートとロウ・アートの境界の解除、自在な盗用、というポスト・モダン的様相だった。だが毛時代の産物にこだわりをもつ点で、依然として毛沢東の呪縛の内にあるとも捉えられかねない。
政治的ポップ・アートの隆盛の後、1996年頃から「艶俗」とよばれる中国キッチュの作品展が続出した。仕掛け人は評論家の栗憲庭。彼らは「通県」アーティスト村で悪趣味で低俗、けばけばしいキッチュな作品を量産した。それらはギラギラとてかる中国料理を描いたものだ。さらにグラビアの女性、ボディービルダー、いかがわしい豊胸機器の広告、憧れのハネムーン海外ツアー、ハンバーガーやコカ・コーラといったジャンクフードなど、消費社会に溢れる快楽の記号を極彩色で描いていく。例えば俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998[4] 。[図7]赤・青・黄・金といった過剰な色の氾濫はポップ・アートの幼児向けの色彩感覚を更に極端化し、黄金への欲望を露呈させる。
胡向東(フゥ・シアントン)の平面作品はボディービルダーや水着女性の背景に白菜を配する。さらにインスタレーションでもプラスチックで白菜を作って本物と並べてみる(「理想栽培」1998年)[5]。[図8]北方では冬場のビタミン源は白菜しかなかった。最近ハウス栽培の普及で年中様々な野菜を口にできるようになった。白菜農家には経営不振で自殺する者も出たという。こうした農村の変容と農民趣味を内在させる。
白菜にキュウリ、金歯を光らせた成金農民、毛沢東語録、革命模範劇の名場面、これらの記号から何が読みとれるだろうか。中国革命は確かに農民中心の革命だった。そして毛は農民そして農民の美術に学ぶことを美術家に強いた。ではこれを現在にスライドさせれば拝金主義の成金農民に学べということになる。中国キッチュは従来のキッチュを農民のキッチュへと誤読したと言えるだろう。それは毛時代と現在への痛烈な風刺となる。
羅氏三兄弟は富貴や子孫繁栄といった農民の願いがこめられた新年画(建国後の理想を描いたお正月の版画)をベースに様々な商品を散りばめる(「私の好きな北京の天安門」1996・97年)[6]。[図9]「カワイイ」享楽的な作品だ。しかも漆絵という農民美術の技法さえ盗用している。
またここに現れた俗悪な成金農民の姿や刺繍や漆絵という農民美術の手法、白菜、黄金や金魚など富貴への願望を示す年画の記号を見れば中国キッチュの意図が見えてくる。それは中国の視点からキッチュを誤読しようとしたことだ。つまり現在の農民の快楽で毛沢東時代の「正しい」農民に反駁した農民キッチュなのである。さらに1930年代の美人画や1950年代の中国新年画の再構成を通して中国キッチュの戦略を見出すことができる。それは1930年代から現在に至る二〇世紀大衆文化史の中に、革命伝統「毛沢東様式」を埋め込もうとする作業である。こうして世界から逸脱した負の遺産「毛沢東様式」は大衆美術の一部として消化されたかのように見せる。
中国キッチュは政治家から庶民へとアートを奪い返した。そして醜い中国の現状を客体化してみせた。しかし彼らが大衆消費社会の快楽を描く限り、大衆の側へと親近する。その批判性は常に肯定性を内包させている。作家が如何に批判的に現状を描いたとしても、受け手がどう受け取るかは規定できない、つまり現状を肯定的に描いているものと受け取られる可能性さえあるということだ。つまり中国キッチュは中国現代社会において商業利益が政治意識を瓦解させたかのように見せてしまう。この点については北京大学の戴錦華が良い例を示している。「中国語で「広場」といえば、かつては政治的な事件が繰り返された(1919年の「五四」運動、二度の天安門事件など)「天安門広場」を意味した。だが現在では「広場」が「ショッピング・プラザ」を示すようになった。つまり政治意識が薄れて経済的な繁栄へと庶民の意識は変わっていったというのだ[7]。そうすると中国キッチュはこうした庶民意識に順応したものに過ぎないと見なされてしまう。近代アートへの確執から自由になったはずのポップ・アートを、椹木野衣が「アメリカのポップ・アートが、冷戦時代、資本主義陣営を擁護する結果となった」[8]と示した過去と同様に、現在の中国キッチュも無批判に現状を受け入れ、市場経済下の中国を肯定してしまうことになるのではないか。
[1] Jeff Koons 1955-キッチュなイメージを使った巨大が「彫刻」作品で知られるアメリカのアーティスト。
[2] 本名:三浦純 1958-日本のまんが家、イラストレーター、タレント。
[3] 余友涵(ユィ・ヨウハン)「毛主席が韶山農民とお話になる」1991年 167×119 <China Avant-garde>Oxford University Press.1993。元になっているのは「毛主席が韶山農民とお話になる」『解放軍画報』1967年10月増刊号。
[4] 俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998年110×110 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年
[5] 胡向東(フゥ・シアントン)「理想栽培Dream Plant」1998年 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05
[6]羅氏三兄弟による連作「わたしの好きな北京の天安門」(1996-97のうちの一作)65×55 アジア美術館所蔵
[7]戴錦華『隠形書写―90年代文化研究』江蘇人民出版社1999.
[8]注353椹木野衣『シミュレーショニズム』(河出文庫1994年)では「ポップは五〇年代における世界情況、すなわち冷戦下において資本主義体制を擁護する美学としてこそ台頭したのだ。世界を異化する意志がポップに必要ないのは、だからこそ当然のことだ。ポップは資本主義こそが美しい、と暗黙に主張する。」(188頁)と示している。
2限 文化論2
ポリティカル・ポップ・アート、シニカル・リアリズム、キッチュ―心覆うあきらめ
関を切ったかのように噴出した様々な中国現代アートも六四天安門事件の絶頂を最後に終息した。「結局我々は政治権力に対して全くの無力だった。それは毛沢東時代の「従順」と変わりはしない。」という諦観が人々の心を覆った。激しい情熱の消えた後には空っぽな心だけが残る。一切が空虚なものに映る。
こうした状況下の1993年、香港の漢雅軒ギャラリーで開催された「ポスト八九中国新芸術展」が六四以降の動向を見据えている。その代表的な方向とは「政治的ポップ・アート」と「シニカル・リアリズム」だった。
政治的ポップ・アートは前述のように「雪解け」前後、ソ連に登場する「ソッツ・アート」に共通する。例えばアレキサンドル・コソラポフは赤地に白でレーニンの肖像とコカ・コーラの商標を並べた(「レーニン・コカコーラ」1980)。赤は共産党とコカ・コーラの赤、社会主義の記号と西側の消費の記号を混在させ、政治的な抑圧と経済活動の自由という逆行するベクトルをみせる。
こうした表現は冷戦の時代、アメリカのポップ・アートにも見出せる。例えばロバート・ウォーカーは「ナイス・アンド・イージー」(1976)で文革中のプロパガンダ・ポスターにヘアカラーの広告を並べている。この場合の記号の混在は、社会主義と資本主義両陣営のプロパガンダ戦略の解消を意図していた。
中国の政治的ポップ・アートの場合、表層的にはアメリカやソ連の例に共通するがその詳細は多少異なる。冷戦の時代に世界を分断したイデオロギーが、中国一国で抱え込んでいること、つまり「共産党が資本主義をやっている」こと。さらにその矛盾、分裂が中国人の内心へと深く入り込んでいることを示している。
王広義(ワン・グァンイィ)の大批判シリーズは革命の記号である「工農兵」が毛沢東の本を持って突進する[1]。[図14]その批判の矛先は西側の消費の記号、コダックフィルム。だが西側の消費社会は今や政府が勧める富貴への道である。経済的に繁栄する今、この突進はドンキホーテのように時代錯誤でひどく滑稽なものにも見えてくる。だがこの狂気はつい最近まで正気だった。資本家は階級の敵、消費は悪だった。過去と現在という時間軸そして今の政治と経済の矛盾、それが分裂した中国人の内心世界を露出している。作品のもつ意義は20年たつ現在でも色褪せることなく、却って批判性を強めている。
中国の政治的ポップ・アートはポップ・アートを芸術批判として誤読し、この批判的方向を政治権力の否定へと向かわせたのである[2]。だが次第にその反逆性は去勢され、資本主義消費社会の快楽へと向かっていく。結果的には、政治的ポップ・アートは借用した元のアメリカン・ポップ・アートの文脈へと逆戻りしてしまう。政治的ポップ・アートの双生児シニカル・リアリズム、彼らの大半は1960年代に生まれ、1980年代に美術大学を出た現代アートの第三世代に当たる。「星星画会(シンシンホアホェイ)」ら第一世代は文革直後の文化的な荒廃の中、人間性の回復、表現の自由、民主化を訴えた。「八五美術運動」の第二世代は、西洋モダニズムの実験を繰り返し、西洋現代思想によって遅れをとった中国を救済しようと考えた。彼ら第三世代は西洋モダニズムの手法が全て出尽くした「中国現代美術展」を目にし、六四天安門事件を経験する。六四の挫折が、理想主義やヒロイズムを払拭する。彼らは政治性を含む中国の現実を回避し、内向的な傾向と虚無感を増していく。例えば方力鈞(ファン・リィジュン)の描く「浮遊する身体」は、自らが頼りなく、拠り所をもてない彼らの精神世界を代表するだろう。
シニカル・リアリズムは中国語で「玩世」現実主義。虚無に浸り冷ややかに世間を傍観する。物事を茶化して不遜(ふそん)に振る舞う態度。気だるく、アンニュイな雰囲気。代表的な作家には方力鈞(ファン・リィジュン)や王勁松(ワン・ジンソン)らがいる。
方力鈞(ファン・リィジュン)は欠伸をしているのか叫んでいるのか分からないスキンヘッドの歪んだ顔の人物像、異常なまでに澄んだ青空、狂ったように咲く赤いバラを描く。ここに空間を歪ませる異様な空気を暗示させた。また水中に浮遊する白い身体の連作は行き場のない心象をみせる。彼らには前の世代のような「自由を求め、中国を変えていこう」というヒロイズムは一切なく、無感動な冷ややかさばかりが目立つ。「アートは無力だ」という場所から出発していると言っていいだろう。
岳敏君(ユエ・ミンジュン)もまたこうした方向性を持っている。真剣に描かれ、また真摯に捉えられてきた名画を同じ顔形の人型で埋め尽くす。「自由は民衆を率いる」(1995)[図15]は当然ながらドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」[図16]をベースにしている[3]。またナポレオンのスペイン侵略に素手で立ち向かった民衆が処刑される場面を描いたゴヤの「1808年5月3日」をベースにした作品もある。やはり同様に皆大口を開いて笑っている。こうした空っぽな人型は古典的な絵画のもつ「アウラ」(作品の放つ力)を一切排除している。画面が同じ構図であるにも関わらず、革命・戦争の中での人々の劇的な高揚は冷淡なパロディーへと冷却される。それは一時の安逸に浸る我々自身の姿とも重なってくる。
1990年代の時点で表面的には革命伝統を消化したといえるのではないだろうか。だが内面において革命伝統が、現実を批判的にみる別の価値観として生長していったことは歪めない。それが現代の課題としてくすぶり続けているのが現状といえるだろう。
[1]王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993 現在も政治的ポップ・アートの先達として活躍している。
[2] この時期の作品を扱ったものに『アジアの美術 福岡アジア美術館のコレクションとその活動』美術出版社1999・『亜細亜散歩』展カタログ、資生堂・水戸芸術館2001などがある。
[3] 岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供。岳敏君(ユエ・ミンジュン)は方力鈞(ファン・リィジュン)と共に現在、美術市場で高値を付ける作家として名高い。
第一章図版の出所
1、劉大鴻(リウ・ダァホン)「四季」(左から春、夏、秋、冬)1991年 油彩、キャンバス 各70×40c任卓華(レン・ヂゥオホア)主編『後八九中国新芸術』香港・漢雅軒hanart TZ Gallery 1993年
2、劉春華(リウ・チュンホア)ほか集体創作「毛主席安源に行く」『解放軍画報』1968年第1期 1月10日表紙
3、江豊(ジアン・フォン)の木版画「港湾労働者」(1931年)。小野田耕三郎編『魯迅収蔵中国木刻集』環翠堂1981年 李允経『中国現代版画史』山西人民出版社1996年10月
毛沢東様式や文革が中国を覆う前の作品。コルビッツの「織物労働者の行進」などから社会主義的な表現を学んだ跡がうかがえる
4、ケーテ・コツビッツの銅版画「織物労働者の行進」(1897年)<Prints and drawings of Käthe Kollwitz >Dover Publications,Inc.1951初版1969年版 北京魯迅博物館編『北京魯迅博物館蔵画選』天津人民出版社1986年 コルビッツは19世紀後期から20世紀前期に活躍したドイツの美術家。19世紀末の労働者が強いられた過酷な勤務や生活の実態を銅版画に描き出し、プロレタリア芸術の先駆者となった
5、「毛主席、世界の革命的人民は無限にあなたを熱愛する」『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月
6、毛沢東ポスターの一例「世界人民よ、団結しよう、アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、各国の反動派を打倒しよう!」1970年『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月
7、「ジープに乗った毛沢東」『解放軍画報』1967年第9期および第24・25期5月10日と10月20日
8、黄鋭(ホアン・ロエイ)「白毛女」1980年頃 DOC(K)S.NO.41-45 Poèmes et art en chine:‟non officiels”(C.D.E.:Sodis) HIVER 1981-1982 France
9、王克平(ワン・クァピン)「偶像」 1978年 木彫 高さ67cm 香港科技大学芸術中心『王克平(ワン・クァピン)作品』1997年
10、王広義(ワン・グァンイィ)「毛沢東 赤格子1号2号」(1988年):成都;孫玉涇所蔵 呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年
11、魏光慶(ウェイ・グァンチン)ら「自殺計画」(1988年湖北省武漢)呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年
12、王度(ワン・ドゥ)ら南方芸術家サロンによる「第1回実験展」(1986年・広東省広州)でのパフォーマンスGao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998
13、黄永砅(ホアン・ヨンピン)「『中国絵画史』と『現代絵画簡史』を洗濯機で2分間攪拌した」(1987年・福建省アモイ)Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998
14、王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993
15、岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年
16、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供
1限 中国語1b 16課復習+
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁 左 小 祖 咒 Zuǒ xiǎo Zǔ zhòu
nà gān qiāng bèi nǐ rēng liǎo
那 杆 枪 被 你 扔 了
wǒ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér
我 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿
wǒ xū yào tā qù shā mǒu gè rén zài zuó tiān
我 需 要 它 去 杀 某 个 人 在 昨 天
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
dāng wǒ tuī kāi nà shàn mén
当 我 推 开 那 扇 门
xiǎng kàn kàn yǒng héng róng guāng de zhuàng jǐng
想 看 看 永 恒 荣 光 的 壮 景
nà méi yǒu tā men shuō de shí yòng jiē tī rán ér wǒ
那 没 有 他 们 说 的 实 用 阶 梯 然 而 我
yòu bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
又 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
nà bǎ jí tā nǐ ná huí lái liǎo
那 把 吉 他 你 拿 回 来 了
nǐ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér
你 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿
wǒ xū yào tā lái gē chàng zài jīn tiān
我 需 要 它 来 歌 唱 在 今 天
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
zài wǒ zǒu chū nà shàn mén
在 我 走 出 那 扇 门
sī xià mǒu běn shū de èr bǎi wǔ shí èr yè
撕 下 某 本 书 的 二 百 五 十 二 页
tā yòng hēi sè xiāng jīn zhè bān dì xiě zhe
它 用 黑 色 镶 金 这 般 地 写 着 :
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
ライフルをお前は放り投げた
そいつを使えないとは俺も言ってはいない
誰かを殺すためにそいつが要る 昨日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
永久不変の壮麗なる光景を見ようと
あのウェスタンドアを開けたとき
やつらの言った実用階段はなかった そして俺は
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
ギターを持ってお前は帰ってきた
そいつを使えないとはお前も言ってはいない
俺は歌うためにそいつが要る 今日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺がウェスタンドアから出て行くとき
ある本の252ページを引き裂いた
そこには金の縁取りの黒文字でこう書かれていた
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
2限文化論2
黄永砅が昨年2019年に亡くなったことを学生の人に聞いた。残念に思う。
質問や意見がよかった。80年代にポップアートの萌芽を指摘。赤と黒と白の色彩。絶望を内包していたこと。
「85美術運動」は押し寄せる西欧モダニズムの情報に体制側が懐柔を示した結果現れた全国的な美術運動だった。王広義、舒群ら東北「北方芸術群体」、盛奇ら「観念21」、張培力、耿建翌らの浙江省「85新空間展」「池社」、黄永砅らの「アモイ・ダダ」、王度らの広州「南方芸術家サロン」など中国全土に様々な芸術集体が発生する。1989年2月、これら集体が終結し、体制的美術家を中国美術館から排除して、中国現代芸術展が開催されたが、肖魯・唐宋がパフォーマンス『銃撃事件』で実弾を発射、警察に逮捕された。この事件は4カ月後の「六四」の前哨となった。また他方では徐冰、呂勝中、隋建国らが体制内で現代アートの実験を展開していった。
1限 中国語 14課15課をやりました。次回は16課です。今日先生が口ずさんだ曲。