牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

昨日のZOOM授業 北京東村のパフォーマンスアート

中国語 18課を行いました。

文化論2

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北京東村+艾未未

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马六明 邢丹文

第五回、北京東村のパフォーマンス・アート―政治暴力に対峙する身体

 

建国以来、市場経済下のシニカル・リアリズムにいたる現代アートの紆余曲折を見てきた。この章では1993年に誕生したアーティスト村「北京東村」を中心にパフォーマンス・アートの動向をみたい。そしてアートのもつ意味についても考察したい。

 天安門事件が与えた後遺症は「知識人の周縁化」を促進したことだろう。中国を救おうといういかに優れた言論も、武力の前では無力に等しい。われわれの英知は、文化は何のためにあるのか、こうした虚無感の逃げ口がポップ・アート、シニカル・リアリズムであったことは前章で述べた。現代文化研究者の一部も政治性を回避して古典研究へと転身した。こうした現象が中国の二つの伝統、古典的伝統と革命伝統に遠因することは言うまでもない。だが、悲しみをかみしめるような彼らの諦観(ていかん)は理解できるとして、このままでいいのだろうか。

 

一方現体制を皮肉る政治的な身体の表出は依然として中国の地下芸術の焦点として継続していった。六四以降1990年代の現代アートが海外の注目を浴び、国際展などに多くの作家たちが参加したのは周知のとおりである。だが彼らの仕事は国内では完全に無視されている。文化部や美術家協会などの官方(グアンファン)(体制側)はパフォーマンスやインスタレーションといった現代アートの方法を禁じ、自由な展覧会の開催を許していない。たとえ文化部と公安の許可を得ていても、開催当日に禁止になるような理不尽な出来事も繰り返されていた。だから当時美術展はゲリラ的に行われていた。秘密裏に準備を重ね、開催当日に手分けして関係者に電話し、当日の内に跡形もなく片づけられる。当然表現の幅は制限されてしまう。こうした状況を逆手に取って特異性を打ち出したのが東村のパフォーマンスだった。

血の粛清六・四天安門事件を経た1993年から1995年、北京東郊外の農村、大山庄に地方から20数人のアーティストが集まってきた。彼らは裸体による過激なパフォーマンスを展開した。それは観念を具現化するような知的な行動ではなく、あくまでもナンセンスで狂気に満ちたものだった。また、「救国からの挫折」というインテリ的思考ともかけ離れたものに思われた。また一回性のパフォーマンスは証拠の残らないアートとして公安の検閲を逃れることができた。だからアングラ(地下芸術)にとって都合がよかった。

裸体である理由は「弱くもろくはかない」身体によって政治暴力に対峙してみせるというアートの姿勢そのものと言える。それは1989年六四天安門事件の際に一人で戦車の前に立ちはだかった男の行動にも共通している[1]。何も身にまとわないことは無防備であるからこそ、犯しがたい人間性が打ち出される。さらにそこから表出される猥褻さは、規律を守る体制の側に対する「抵抗の意志」の表現でもあった。彼らは政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムを生んだ圓明園芸術家村や後の中国キッチュ通県アーティスト村とは対照的に作品の商品化を拒否した。

 たとえば1994年張洹(ヂャン・ホアン)は裸のまま公衆便所に一時間座り続ける「12平方㍍」、小屋の梁に水平に鎖で身体を固定して、腕からぬいた血を煮えたぎらせる「65㌕」といった衝撃的で自虐的なパフォーマスを行った[2]。[図1、2]

また馬六明(マァ・リウミン)は「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)」のシリーズ(1994-95年)で張洹(ヂャン・ホアン)の自虐的な表現とは対照的に加虐的な表出を試みる[3]。[図3]髪が長く、華奢で女のような容姿、あらわになった男性器は両性具有であるかのように性のはざまに漂う。裸体の馬六明(マァ・リウミン)は魚を活きたまま煮たり、焼いたり、宙吊りにしたりする。「魚水の情」は古来、「魚と水」のように「男と女」そして「為政者と家臣」が親密であることをたとえた。さらに毛沢東時代には「解放軍と人民」の親密さを示す。とすれば、この表現が性差ばかりか軍への批判的行動とも深読みが可能だろう。その男女の性差のはざまに晒された「他者としての身体」は異形による救済さえも意図し始める。

マッチョな筋肉質の肉体をもつ張洹(ヂャン・ホアン)はその体を痛めつけるマゾヒスティックな行為を繰り返す。また馬六明(マァ・リウミン)は女の顔と手をもつ両性具有的な肉体でのサディスティックな表現を通じて性差の問題を衝撃的に表出した。パフォーマンスにおいて張洹(ヂャン・ホアン)と馬六明(マァ・リウミン)は肉体と行為が互いに交差する対照的な存在で、規制の行為や肉体の暴力性を無化あるいは逆に強調させてもみせた。

朱冥(ヂュー・ミン)は1996年以来、泡やバルーンを素材に作品を作り続けた。行為そのものもはかないが、気泡もまたできては消えていく。そこには生そのものの刹那性をも読みとれよう。透明なバルーンの中に横たわる脆弱(ぜいじゃく)な裸の身体は、一切のコミュニケーションを絶ち、母体回帰していく胎児にも見えてくる。ひきこもっていく内向性を顕にしていった。進化ではなく退行を志向していくのである。

 

彼らの「いかがわしい」所作は当然ながら「社会主義中国の健全な人民の規律を守る」べく、官憲の制裁を受けることになる。1994年6月12日馬六明(マァ・リウミン)と朱冥(ヂュー・ミン)は逮捕監禁されそれぞれ二ヶ月、三ヵ月の入獄。同じ6月の30日、張洹(ヂャン・ホアン)は私服警官らしき身元不明者に頭部をビールジョッキで殴打され、頭から耳にかけて数十針縫う全治数ヶ月のけがをする。集中的に狙われて警察に取り締まられたものと思われる。

張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「65キログラム」は屋内だし、馬六明(マァ・リウミン)の「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)のランチ」も院子(四方を囲まれた庭)で行われている。一定の観衆しか見てはいない、アートなのだから罪には問われないはずだ。だが何よりもまず当局はアートが理解できない。単に人の集まることに異常なほど敏感なのである。そこまで異端を恐れるのは、当局自体が脆弱な基盤に立っているという証拠にもなる。

結果、東村は解散に追い込まれ、張洹(ヂャン・ホアン)は1998年の「インサイド・アウト」展でアメリカに招聘されて以来ニューヨークからもどらない[4]。馬六明(マァ・リウミン)は国際展の常連となり内外の評価が高まるにつれて陰湿な加虐性を弱めていく。だが筆者も出かけていった2000年韓国光州ビエンナーレでは強力な睡眠薬を飲んだ後、観客と写真撮影をしていくうちに意識がなくなる、という危険な表出を行った。朱冥(ヂュー・ミン)もまた海外への招聘が多くなり日の当たる場所に出てきたが、狂気は依然孕んでいて、バルーンの中で有毒な蛍光塗料を全身に塗り、暗転させて暗闇に子宮の中の「みどりご」を浮き立たせるという危ないパフォーマンスを持続している[5]。[図4、11、12]

「地下芸術」的色彩を濃厚にした彼ら東村は、異形としての自らの肉体そのものの存在を問い続けた。彼らのパフォーマンスは一見荒唐無稽なものに見えるが、十分に計画を練った上で実行に移されている。実は非常に計算された原初的身体の再現だったのである。そして人間の性差・生成という従来当たり前のように考えられてきた行程を、逆行させたり、断絶させたりして、いったんは破壊し、また独自に再構築させてもいたのである。その衝撃的な身体性は中国の特徴的なパフォーマンスをつくりあげた。

 

 彼らの表現は非常に単純で、ベーシックなものだった。しかしそこで取りあげられた人間の生と死、身体そのものとか、男と女の性差の問題、加虐あるいは被虐への心的嗜好の問題、回帰願望というものは実に根源的な人間の存在への問いかけだった。

行為だけを見れば、日本や欧米の現代アートが通過してきたことの「まねごと」に映るかもしれない。しかし彼らに過去の情報は皆無で、行為を反復したという意識はない。だからこそ情報に埋もれたものにとって、今さら気恥ずかしくてできないような大胆で原初的な表出が可能になったのだ。

また彼らの行為の生まれ出る文脈が全く異なっている。彼らの示した身体、それは中国の古典的伝統的美の架空の身体、さらに革命伝統、毛沢東様式が強いてきた革命的で強靭(きょうじん)な身体からも解き放されたものだった。そしてそれは同時に欧米の現代アートがアートを概念性表出の「知恵試し」のように取り違え邁進(まいしん)する中で忘れ去ってしまった本質的な身体へと立ち返ってもいたのである。それは「脆弱(ぜいじゃく)なる身体」で世界に、そして政治暴力に対峙するというアートの重要な姿勢でもあったのである[6]

 

東村のパフォーマンスの持つ不条理性と諧謔(かいぎゃく)性は集団のパフォーマンスにも表れている。1995年、東村の張洹(ヂャン・ホアン)、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)、蒼鑫(ツァン・シン)、詛咒(後にミュージシャン左小祖咒)ら、東村の10人のアーティストは北京郊外の山へ行き「ナイン・ホールズ」「無名の山を一㍍高くする」[図5]というパフォーマンスを行った[7]。前者は山の中腹に各自がサイズに合った穴を掘って、大地と性交するもの、後者は題の通り山頂に体重の順に重なって山を一㍍高くするものだ。実に単純でばかばかしい表現だが、自然な人間の身体はこんなにも美しいのかと思う。また血の通った身体のぬくもりや、血管の中に流れていく血の音が聞こえてくるような静寂さえ伝わってくる。諧謔性の際立つ表現である。崇高なもののように思われていた身体が「もの化」される。だがこうした行為から相互の身体の同質による共鳴、再理解が始まっていた。 

 

東村以外では宋冬(ソン・トン)が1996年「息を吐く」[図6]で厳冬の深夜、天安門広場に俯せになって敷石を自分の息で凍らせているというパフォーマンスを行った[8]。同年「川に印を捺す」ではチベットラサ川で「水」と刻まれた巨大な木印を川に捺す行為を一時間続けた。

また劉瑾(リウ・ジン)は昨年大きな甕(かめ)に醤油を満たして裸で豚を抱いてその中に入ってチャーシューをつくろうとしたり、大きな甕にコカ・コーラを入れて入浴したりするパフォーマンスを行った[9]。[図8]ばかばかしい行為の繰り返し、肉としての身体と物質を或いは観念を対照的に、時にはそれらを混同し、境界を揺さぶってみせるが、作家の真剣さとは裏腹に何とも言えないおかしさ、諧謔(かいぎゃく)性が滲み出てくる。

身体性を集中し肉そのものへの追求に向かうのは顧徳鑫(グゥ・ダァシン)が最初だろう。特に1998年1月の床一面に豚の脳味噌を並べていく作品や一見美しい深紅のバラの花弁に肉塊が潜んでいる作品は衝撃的だった[10]

 

[1] たとえばその時の写真は『天安門一九八九』台湾 聯経出版事業公司 1989年8月に掲載されているし、映像はカーマ・ヒントン、リチャード・ゴードン監督ドキュメンタリー映画天安門』(1995年)にも収められている。東村のアーティスト蒼鑫は1994年12月「踩脸」(顔を踏む)というパフォーマンスを行っているが、六四天安門事件をイメージさせる作品である。『解放——温普林中国前卫艺术档案之八零年代』2008年3月のパフォーマンス・ビデオ参照。

[2] 榮榮(ロンロン)「北京東村」(張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス)1994年 Dislocation Volume 7 New Beijing Photography : Hong Kong 1997

張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「12平方メートル」1994年3月31日Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998

1994年6月14日、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)が逮捕され、同月30日には張洹(ヂャン・ホアン)が頭部を殴打される。<Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5

[3] 馬六明(マァ・リウミン)「FISH CHILD」1996年撮影:榮榮(ロンロン) <Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5

 

[4] 2008年ごろ、上海に工作室をつくった。

[5] 朱冥(ヂュー・ミン)によるパフォーマンス「1999年3月10日」(NIPAF名古屋) 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05

朱冥(ヂュー・ミン)「2000年7月28日」(ドイツ・ベルリン・世界文化センター)艾未未(アイ・ウェイウェイ)・馮博一(フォン・ボォイー)・華天雪(ホア・ティエンシュエ)『不合作方式FUCK OFF』上海東廊芸術2000年

「海辺に横たわる朱冥(ヂュー・ミン)」作家提供

[6]補遺:朱冥(ヂュー・ミン)の場合 ところで、東村に集まったアーティストたちはどんな経歴を持っているのだろうか。朱冥(ヂュー・ミン)を例に解説したい。彼はなかなか面白い体験をしている。1972年湖南省の生まれ、1991年、母親に300元もらって北京に出てきたという。(1元=15円ぐらい)その前は、高校中退して乞食修行などをやっていた。上京後は美術のモデル(半日6元)や交差点に停まった車を勝手に磨いて金を請求するというアルバイトをした。1993年に中国美術館で個展をやることになって、一日300元、一週間分の借料を友人に借金をして支払ったという。東村に参加。1994年6月、馬六明(マァ・リウミン)のパフォーマンスの手伝いをしていたところ逮捕され、投獄三ヶ月。一日中電灯が点いている独房で、昆虫採集をし、閑にまかせ、昆虫ネックレスをつくる。檻の中では美術工作者を自称し、このため獄中の仲間に請われるまま龍や虎、刀の絵を刺青のデザインとして提供した。釈放後、北京へ戻る。洗濯中に「泡」を表現媒介にする方向性を見出し、裸で土の中、泡の中に入る作品をつくる。1997年昌平県にある工場に大きなバルーンを特注する。(120元かかったという)バルーンを使った作品で注目され始める。ところが雑誌で「キノコで大儲け」という記事を読み、湖北省まで行き、菌を100元分購入し、一年実験するが失敗し、アート活動に戻った。1999年先のNIPAFの招きで初めての海外日本へ、蛍光塗料を全身に塗ってバルーンの中に横たわる作品で、絶賛を浴びることになる。呉文光主編『現場 第一巻』天津社会学院出版社 2000年11月 参照。

[7] 北京東村のアーティストたちによるパフォーマンス「無名の山のために1メートル高くする」1995年5月22日 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年

[8] 宋冬(ソン・トン)「息を吐く」1996年北京 温普林(ウェン・プゥリン)『中国行動―八十年代到九十年代的行為芸術』北京風馬旗文化伝播有限公司 2000年

[9] 劉瑾(リウ・ジン)「コーラ風呂」2000年8月28日 舒陽(シュー・ヤン)編『第1届 開放芸術平台-行為芸術』 香港・新世紀出版社 

[10] 顧徳鑫(グゥ・ダァシン)「1997年6月16日」北京『中国新鋭芸術』中国世界語出版社1999年7月

 

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