牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

昨日のZOOM授業 北京東村のパフォーマンスアート

中国語 18課を行いました。

文化論2

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北京東村+艾未未

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马六明 邢丹文

第五回、北京東村のパフォーマンス・アート―政治暴力に対峙する身体

 

建国以来、市場経済下のシニカル・リアリズムにいたる現代アートの紆余曲折を見てきた。この章では1993年に誕生したアーティスト村「北京東村」を中心にパフォーマンス・アートの動向をみたい。そしてアートのもつ意味についても考察したい。

 天安門事件が与えた後遺症は「知識人の周縁化」を促進したことだろう。中国を救おうといういかに優れた言論も、武力の前では無力に等しい。われわれの英知は、文化は何のためにあるのか、こうした虚無感の逃げ口がポップ・アート、シニカル・リアリズムであったことは前章で述べた。現代文化研究者の一部も政治性を回避して古典研究へと転身した。こうした現象が中国の二つの伝統、古典的伝統と革命伝統に遠因することは言うまでもない。だが、悲しみをかみしめるような彼らの諦観(ていかん)は理解できるとして、このままでいいのだろうか。

 

一方現体制を皮肉る政治的な身体の表出は依然として中国の地下芸術の焦点として継続していった。六四以降1990年代の現代アートが海外の注目を浴び、国際展などに多くの作家たちが参加したのは周知のとおりである。だが彼らの仕事は国内では完全に無視されている。文化部や美術家協会などの官方(グアンファン)(体制側)はパフォーマンスやインスタレーションといった現代アートの方法を禁じ、自由な展覧会の開催を許していない。たとえ文化部と公安の許可を得ていても、開催当日に禁止になるような理不尽な出来事も繰り返されていた。だから当時美術展はゲリラ的に行われていた。秘密裏に準備を重ね、開催当日に手分けして関係者に電話し、当日の内に跡形もなく片づけられる。当然表現の幅は制限されてしまう。こうした状況を逆手に取って特異性を打ち出したのが東村のパフォーマンスだった。

血の粛清六・四天安門事件を経た1993年から1995年、北京東郊外の農村、大山庄に地方から20数人のアーティストが集まってきた。彼らは裸体による過激なパフォーマンスを展開した。それは観念を具現化するような知的な行動ではなく、あくまでもナンセンスで狂気に満ちたものだった。また、「救国からの挫折」というインテリ的思考ともかけ離れたものに思われた。また一回性のパフォーマンスは証拠の残らないアートとして公安の検閲を逃れることができた。だからアングラ(地下芸術)にとって都合がよかった。

裸体である理由は「弱くもろくはかない」身体によって政治暴力に対峙してみせるというアートの姿勢そのものと言える。それは1989年六四天安門事件の際に一人で戦車の前に立ちはだかった男の行動にも共通している[1]。何も身にまとわないことは無防備であるからこそ、犯しがたい人間性が打ち出される。さらにそこから表出される猥褻さは、規律を守る体制の側に対する「抵抗の意志」の表現でもあった。彼らは政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムを生んだ圓明園芸術家村や後の中国キッチュ通県アーティスト村とは対照的に作品の商品化を拒否した。

 たとえば1994年張洹(ヂャン・ホアン)は裸のまま公衆便所に一時間座り続ける「12平方㍍」、小屋の梁に水平に鎖で身体を固定して、腕からぬいた血を煮えたぎらせる「65㌕」といった衝撃的で自虐的なパフォーマスを行った[2]。[図1、2]

また馬六明(マァ・リウミン)は「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)」のシリーズ(1994-95年)で張洹(ヂャン・ホアン)の自虐的な表現とは対照的に加虐的な表出を試みる[3]。[図3]髪が長く、華奢で女のような容姿、あらわになった男性器は両性具有であるかのように性のはざまに漂う。裸体の馬六明(マァ・リウミン)は魚を活きたまま煮たり、焼いたり、宙吊りにしたりする。「魚水の情」は古来、「魚と水」のように「男と女」そして「為政者と家臣」が親密であることをたとえた。さらに毛沢東時代には「解放軍と人民」の親密さを示す。とすれば、この表現が性差ばかりか軍への批判的行動とも深読みが可能だろう。その男女の性差のはざまに晒された「他者としての身体」は異形による救済さえも意図し始める。

マッチョな筋肉質の肉体をもつ張洹(ヂャン・ホアン)はその体を痛めつけるマゾヒスティックな行為を繰り返す。また馬六明(マァ・リウミン)は女の顔と手をもつ両性具有的な肉体でのサディスティックな表現を通じて性差の問題を衝撃的に表出した。パフォーマンスにおいて張洹(ヂャン・ホアン)と馬六明(マァ・リウミン)は肉体と行為が互いに交差する対照的な存在で、規制の行為や肉体の暴力性を無化あるいは逆に強調させてもみせた。

朱冥(ヂュー・ミン)は1996年以来、泡やバルーンを素材に作品を作り続けた。行為そのものもはかないが、気泡もまたできては消えていく。そこには生そのものの刹那性をも読みとれよう。透明なバルーンの中に横たわる脆弱(ぜいじゃく)な裸の身体は、一切のコミュニケーションを絶ち、母体回帰していく胎児にも見えてくる。ひきこもっていく内向性を顕にしていった。進化ではなく退行を志向していくのである。

 

彼らの「いかがわしい」所作は当然ながら「社会主義中国の健全な人民の規律を守る」べく、官憲の制裁を受けることになる。1994年6月12日馬六明(マァ・リウミン)と朱冥(ヂュー・ミン)は逮捕監禁されそれぞれ二ヶ月、三ヵ月の入獄。同じ6月の30日、張洹(ヂャン・ホアン)は私服警官らしき身元不明者に頭部をビールジョッキで殴打され、頭から耳にかけて数十針縫う全治数ヶ月のけがをする。集中的に狙われて警察に取り締まられたものと思われる。

張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「65キログラム」は屋内だし、馬六明(マァ・リウミン)の「芬(フェン)・馬六明(マァ・リウミン)のランチ」も院子(四方を囲まれた庭)で行われている。一定の観衆しか見てはいない、アートなのだから罪には問われないはずだ。だが何よりもまず当局はアートが理解できない。単に人の集まることに異常なほど敏感なのである。そこまで異端を恐れるのは、当局自体が脆弱な基盤に立っているという証拠にもなる。

結果、東村は解散に追い込まれ、張洹(ヂャン・ホアン)は1998年の「インサイド・アウト」展でアメリカに招聘されて以来ニューヨークからもどらない[4]。馬六明(マァ・リウミン)は国際展の常連となり内外の評価が高まるにつれて陰湿な加虐性を弱めていく。だが筆者も出かけていった2000年韓国光州ビエンナーレでは強力な睡眠薬を飲んだ後、観客と写真撮影をしていくうちに意識がなくなる、という危険な表出を行った。朱冥(ヂュー・ミン)もまた海外への招聘が多くなり日の当たる場所に出てきたが、狂気は依然孕んでいて、バルーンの中で有毒な蛍光塗料を全身に塗り、暗転させて暗闇に子宮の中の「みどりご」を浮き立たせるという危ないパフォーマンスを持続している[5]。[図4、11、12]

「地下芸術」的色彩を濃厚にした彼ら東村は、異形としての自らの肉体そのものの存在を問い続けた。彼らのパフォーマンスは一見荒唐無稽なものに見えるが、十分に計画を練った上で実行に移されている。実は非常に計算された原初的身体の再現だったのである。そして人間の性差・生成という従来当たり前のように考えられてきた行程を、逆行させたり、断絶させたりして、いったんは破壊し、また独自に再構築させてもいたのである。その衝撃的な身体性は中国の特徴的なパフォーマンスをつくりあげた。

 

 彼らの表現は非常に単純で、ベーシックなものだった。しかしそこで取りあげられた人間の生と死、身体そのものとか、男と女の性差の問題、加虐あるいは被虐への心的嗜好の問題、回帰願望というものは実に根源的な人間の存在への問いかけだった。

行為だけを見れば、日本や欧米の現代アートが通過してきたことの「まねごと」に映るかもしれない。しかし彼らに過去の情報は皆無で、行為を反復したという意識はない。だからこそ情報に埋もれたものにとって、今さら気恥ずかしくてできないような大胆で原初的な表出が可能になったのだ。

また彼らの行為の生まれ出る文脈が全く異なっている。彼らの示した身体、それは中国の古典的伝統的美の架空の身体、さらに革命伝統、毛沢東様式が強いてきた革命的で強靭(きょうじん)な身体からも解き放されたものだった。そしてそれは同時に欧米の現代アートがアートを概念性表出の「知恵試し」のように取り違え邁進(まいしん)する中で忘れ去ってしまった本質的な身体へと立ち返ってもいたのである。それは「脆弱(ぜいじゃく)なる身体」で世界に、そして政治暴力に対峙するというアートの重要な姿勢でもあったのである[6]

 

東村のパフォーマンスの持つ不条理性と諧謔(かいぎゃく)性は集団のパフォーマンスにも表れている。1995年、東村の張洹(ヂャン・ホアン)、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)、蒼鑫(ツァン・シン)、詛咒(後にミュージシャン左小祖咒)ら、東村の10人のアーティストは北京郊外の山へ行き「ナイン・ホールズ」「無名の山を一㍍高くする」[図5]というパフォーマンスを行った[7]。前者は山の中腹に各自がサイズに合った穴を掘って、大地と性交するもの、後者は題の通り山頂に体重の順に重なって山を一㍍高くするものだ。実に単純でばかばかしい表現だが、自然な人間の身体はこんなにも美しいのかと思う。また血の通った身体のぬくもりや、血管の中に流れていく血の音が聞こえてくるような静寂さえ伝わってくる。諧謔性の際立つ表現である。崇高なもののように思われていた身体が「もの化」される。だがこうした行為から相互の身体の同質による共鳴、再理解が始まっていた。 

 

東村以外では宋冬(ソン・トン)が1996年「息を吐く」[図6]で厳冬の深夜、天安門広場に俯せになって敷石を自分の息で凍らせているというパフォーマンスを行った[8]。同年「川に印を捺す」ではチベットラサ川で「水」と刻まれた巨大な木印を川に捺す行為を一時間続けた。

また劉瑾(リウ・ジン)は昨年大きな甕(かめ)に醤油を満たして裸で豚を抱いてその中に入ってチャーシューをつくろうとしたり、大きな甕にコカ・コーラを入れて入浴したりするパフォーマンスを行った[9]。[図8]ばかばかしい行為の繰り返し、肉としての身体と物質を或いは観念を対照的に、時にはそれらを混同し、境界を揺さぶってみせるが、作家の真剣さとは裏腹に何とも言えないおかしさ、諧謔(かいぎゃく)性が滲み出てくる。

身体性を集中し肉そのものへの追求に向かうのは顧徳鑫(グゥ・ダァシン)が最初だろう。特に1998年1月の床一面に豚の脳味噌を並べていく作品や一見美しい深紅のバラの花弁に肉塊が潜んでいる作品は衝撃的だった[10]

 

[1] たとえばその時の写真は『天安門一九八九』台湾 聯経出版事業公司 1989年8月に掲載されているし、映像はカーマ・ヒントン、リチャード・ゴードン監督ドキュメンタリー映画天安門』(1995年)にも収められている。東村のアーティスト蒼鑫は1994年12月「踩脸」(顔を踏む)というパフォーマンスを行っているが、六四天安門事件をイメージさせる作品である。『解放——温普林中国前卫艺术档案之八零年代』2008年3月のパフォーマンス・ビデオ参照。

[2] 榮榮(ロンロン)「北京東村」(張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス)1994年 Dislocation Volume 7 New Beijing Photography : Hong Kong 1997

張洹(ヂャン・ホアン)のパフォーマンス「12平方メートル」1994年3月31日Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998

1994年6月14日、馬六明(マァ・リウミン)、朱冥(ヂュー・ミン)が逮捕され、同月30日には張洹(ヂャン・ホアン)が頭部を殴打される。<Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5

[3] 馬六明(マァ・リウミン)「FISH CHILD」1996年撮影:榮榮(ロンロン) <Rong Rong's East Village> Chambers Fine Art New York 2003/5

 

[4] 2008年ごろ、上海に工作室をつくった。

[5] 朱冥(ヂュー・ミン)によるパフォーマンス「1999年3月10日」(NIPAF名古屋) 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05

朱冥(ヂュー・ミン)「2000年7月28日」(ドイツ・ベルリン・世界文化センター)艾未未(アイ・ウェイウェイ)・馮博一(フォン・ボォイー)・華天雪(ホア・ティエンシュエ)『不合作方式FUCK OFF』上海東廊芸術2000年

「海辺に横たわる朱冥(ヂュー・ミン)」作家提供

[6]補遺:朱冥(ヂュー・ミン)の場合 ところで、東村に集まったアーティストたちはどんな経歴を持っているのだろうか。朱冥(ヂュー・ミン)を例に解説したい。彼はなかなか面白い体験をしている。1972年湖南省の生まれ、1991年、母親に300元もらって北京に出てきたという。(1元=15円ぐらい)その前は、高校中退して乞食修行などをやっていた。上京後は美術のモデル(半日6元)や交差点に停まった車を勝手に磨いて金を請求するというアルバイトをした。1993年に中国美術館で個展をやることになって、一日300元、一週間分の借料を友人に借金をして支払ったという。東村に参加。1994年6月、馬六明(マァ・リウミン)のパフォーマンスの手伝いをしていたところ逮捕され、投獄三ヶ月。一日中電灯が点いている独房で、昆虫採集をし、閑にまかせ、昆虫ネックレスをつくる。檻の中では美術工作者を自称し、このため獄中の仲間に請われるまま龍や虎、刀の絵を刺青のデザインとして提供した。釈放後、北京へ戻る。洗濯中に「泡」を表現媒介にする方向性を見出し、裸で土の中、泡の中に入る作品をつくる。1997年昌平県にある工場に大きなバルーンを特注する。(120元かかったという)バルーンを使った作品で注目され始める。ところが雑誌で「キノコで大儲け」という記事を読み、湖北省まで行き、菌を100元分購入し、一年実験するが失敗し、アート活動に戻った。1999年先のNIPAFの招きで初めての海外日本へ、蛍光塗料を全身に塗ってバルーンの中に横たわる作品で、絶賛を浴びることになる。呉文光主編『現場 第一巻』天津社会学院出版社 2000年11月 参照。

[7] 北京東村のアーティストたちによるパフォーマンス「無名の山のために1メートル高くする」1995年5月22日 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年

[8] 宋冬(ソン・トン)「息を吐く」1996年北京 温普林(ウェン・プゥリン)『中国行動―八十年代到九十年代的行為芸術』北京風馬旗文化伝播有限公司 2000年

[9] 劉瑾(リウ・ジン)「コーラ風呂」2000年8月28日 舒陽(シュー・ヤン)編『第1届 開放芸術平台-行為芸術』 香港・新世紀出版社 

[10] 顧徳鑫(グゥ・ダァシン)「1997年6月16日」北京『中国新鋭芸術』中国世界語出版社1999年7月

 

fashion.163.com

 

 

今日は会議、一昨日の対面授業

3限演習 山本さん、滝沢さんの卒論発表 南京大虐殺をめぐって、日中関係について

お土産に馬場公彦さんの著作を2冊、他、重い。

4限特殊講義 ぺジオンさん発表 South Park  の Band in China 2019 風刺アニメ

rebel pepper 变态辣椒 🌶 の風刺漫画 政治と結託した中国資本 対 トランプ政権

さて、バイデン 対 トランプ の大統領選の結果は出ているが… どう変わるか?

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ラージャオ2019

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漢化政策 

 

艳俗艺术 CHINA KITSCH チャイナキッチュ

1限 中国語 17課 時間曜日の言い方など。

2限 文化論2艳俗艺术 CHINA KITSCH チャイナキッチュ

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羅氏三兄弟 

www.sohu.com

第四回、チャイナ・キッチュ―醜い現状 批判と認可

    

1990年代半ば、政治的ポップ・アートの政治性は一挙に去勢され、大衆消費社会の快楽が前面に押し出された。それが中国キッチュである。

キッチュは「まがいもの」、くいだおれ、かに道楽の看板が氾濫する大阪道頓堀あたりのイメージだろう。代表的な作家ジェフ・クーンズ[1]のステンレス製の風船うさぎやパンジーでできた巨大な犬のぬいぐるみ、陶器製のマイケル・ジャクソンチンパンジーのバブルスなどが想起される。巨額を投じて無意味なものをつくる、またこうした無意味なものを愛でるみうらじゅん[2]の様な姿勢をいうのかもしれない。

 作品のオリジナリティーアウラ(作品の放つ力)高尚さを信じた近代美術はこうした享楽的で不遜(ふそん)な遊戯によって全面否定された。醜悪で悪趣味、無意味な反復。彼らにとってアートは大衆の先に立って人々を先導する存在ではない。大衆の後から彼らの好む記号を拾い集め、それを再構成してみせる単なる収集癖のようにもみえる。

 

 中国キッチュは画面にうまそうな中華料理、コーラやスプライト、ハンバーガー、カラオケマイクにケータイ、カメラ、CD、エアロビクスやボディービル、グラビアの水着姿の女性、怪しげな豊胸器具の広告、夢の海外ツアー、かわいいペット、山水画の掛け軸、骨董の壺など雑多なモノを登場させた。これらの品々は我々の欲望の対象である。そしてモノによって我々の人生も評価され、モノを手に入れることが生きる目的ともなる。人とモノとの関係、消費社会の快楽。これらの記号は読み解くことを誘惑する。誘惑に乗って解読をすすめてみたい。

まずいえるのは過剰なあまりにも過剰な表現だ。誰もがこの画面を見たらそう感じるだろう。目を射すような原色の氾濫、荒唐無稽に溢れるモノ、モノ、これらは中国人特有の派手で過剰な幸せのシンボルなのだろうか。

 

 中国キッチュの先達となったのは余友涵(ユィ・ヨウハン)の「毛主席が韶山農民とお話になる」(1991年)[3]だろう。これは1959年、32年ぶりに里帰りした毛の写真を元に、農民の好む花柄プリントを重ねる。政治的ポップ・アートの政治性よりはむしろ意図的なダサイセンス、かっこわるさを重視している。[図5,6]

 1996年、集中的に中国キッチュの美術展が開催される。彼らの根拠地は「通県アーティスト村」である。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムの「圓明園アーティスト村」が閉鎖された後、彼らは北京市街から東へ50キロぐらいに位置する通県の農村(通県宋荘)に移り住んだ。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズム同様に平面に固執し集団でキッチュな作品=後衛的作品を量産している。

極彩色で、通俗的な水着の美女や様々な商品、中華料理や白菜を描く。大衆の先端に位置して現代アートの過激な実験を展開する前衛的なアートとは対照的に、大衆の後からマス・カルチャーを拾い集め、再構成する。ここには消費社会の新たな大衆への期待と嘲笑、消費文化への賞賛と批判が複雑に入りくんでいる。

毛沢東様式の希望に満ちた農民の姿は理想上のものであり「想像上の客体」でしかなかった。彼ら中国キッチュの作家たちは、こうした毛沢東様式の「正しい」大衆像を拒否し、軽薄な成金農民の姿を悪趣味で醜く描いた。中国キッチュは意識的な学究的姿勢で大衆文化の歴史的な検証を提出していく。彼らは戦略的意図を顕にし、批評家の論争を誘発する。用意された解釈は、ハイ・アートとロウ・アートの境界の解除、自在な盗用、というポスト・モダン的様相だった。だが毛時代の産物にこだわりをもつ点で、依然として毛沢東の呪縛の内にあるとも捉えられかねない。

                      

政治的ポップ・アートの隆盛の後、1996年頃から「艶俗」とよばれる中国キッチュの作品展が続出した。仕掛け人は評論家の栗憲庭。彼らは「通県」アーティスト村で悪趣味で低俗、けばけばしいキッチュな作品を量産した。それらはギラギラとてかる中国料理を描いたものだ。さらにグラビアの女性、ボディービルダー、いかがわしい豊胸機器の広告、憧れのハネムーン海外ツアー、ハンバーガーやコカ・コーラといったジャンクフードなど、消費社会に溢れる快楽の記号を極彩色で描いていく。例えば俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998[4] 。[図7]赤・青・黄・金といった過剰な色の氾濫はポップ・アートの幼児向けの色彩感覚を更に極端化し、黄金への欲望を露呈させる。

胡向東(フゥ・シアントン)の平面作品はボディービルダーや水着女性の背景に白菜を配する。さらにインスタレーションでもプラスチックで白菜を作って本物と並べてみる(「理想栽培」1998年)[5]。[図8]北方では冬場のビタミン源は白菜しかなかった。最近ハウス栽培の普及で年中様々な野菜を口にできるようになった。白菜農家には経営不振で自殺する者も出たという。こうした農村の変容と農民趣味を内在させる。

 白菜にキュウリ、金歯を光らせた成金農民、毛沢東語録、革命模範劇の名場面、これらの記号から何が読みとれるだろうか。中国革命は確かに農民中心の革命だった。そして毛は農民そして農民の美術に学ぶことを美術家に強いた。ではこれを現在にスライドさせれば拝金主義の成金農民に学べということになる。中国キッチュは従来のキッチュを農民のキッチュへと誤読したと言えるだろう。それは毛時代と現在への痛烈な風刺となる。

 羅氏三兄弟は富貴や子孫繁栄といった農民の願いがこめられた新年画(建国後の理想を描いたお正月の版画)をベースに様々な商品を散りばめる(「私の好きな北京の天安門」1996・97年)[6]。[図9]「カワイイ」享楽的な作品だ。しかも漆絵という農民美術の技法さえ盗用している。

  またここに現れた俗悪な成金農民の姿や刺繍や漆絵という農民美術の手法、白菜、黄金や金魚など富貴への願望を示す年画の記号を見れば中国キッチュの意図が見えてくる。それは中国の視点からキッチュを誤読しようとしたことだ。つまり現在の農民の快楽で毛沢東時代の「正しい」農民に反駁した農民キッチュなのである。さらに1930年代の美人画や1950年代の中国新年画の再構成を通して中国キッチュの戦略を見出すことができる。それは1930年代から現在に至る二〇世紀大衆文化史の中に、革命伝統「毛沢東様式」を埋め込もうとする作業である。こうして世界から逸脱した負の遺産毛沢東様式」は大衆美術の一部として消化されたかのように見せる。

中国キッチュは政治家から庶民へとアートを奪い返した。そして醜い中国の現状を客体化してみせた。しかし彼らが大衆消費社会の快楽を描く限り、大衆の側へと親近する。その批判性は常に肯定性を内包させている。作家が如何に批判的に現状を描いたとしても、受け手がどう受け取るかは規定できない、つまり現状を肯定的に描いているものと受け取られる可能性さえあるということだ。つまり中国キッチュは中国現代社会において商業利益が政治意識を瓦解させたかのように見せてしまう。この点については北京大学の戴錦華が良い例を示している。「中国語で「広場」といえば、かつては政治的な事件が繰り返された(1919年の「五四」運動、二度の天安門事件など)「天安門広場」を意味した。だが現在では「広場」が「ショッピング・プラザ」を示すようになった。つまり政治意識が薄れて経済的な繁栄へと庶民の意識は変わっていったというのだ[7]。そうすると中国キッチュはこうした庶民意識に順応したものに過ぎないと見なされてしまう。近代アートへの確執から自由になったはずのポップ・アートを、椹木野衣が「アメリカのポップ・アートが、冷戦時代、資本主義陣営を擁護する結果となった」[8]と示した過去と同様に、現在の中国キッチュも無批判に現状を受け入れ、市場経済下の中国を肯定してしまうことになるのではないか。

 

[1] Jeff Koons 1955-キッチュなイメージを使った巨大が「彫刻」作品で知られるアメリカのアーティスト。

[2] 本名:三浦純 1958-日本のまんが家、イラストレーター、タレント。

[3] 余友涵(ユィ・ヨウハン)「毛主席が韶山農民とお話になる」1991年 167×119 <China Avant-garde>Oxford University Press.1993。元になっているのは「毛主席が韶山農民とお話になる」『解放軍画報』1967年10月増刊号。

[4] 俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998年110×110 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年

[5] 胡向東(フゥ・シアントン)「理想栽培Dream Plant」1998年 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05

[6]羅氏三兄弟による連作「わたしの好きな北京の天安門」(1996-97のうちの一作)65×55 アジア美術館所蔵

[7]戴錦華『隠形書写―90年代文化研究』江蘇人民出版社1999.

[8]注353椹木野衣『シミュレーショニズム』(河出文庫1994年)では「ポップは五〇年代における世界情況、すなわち冷戦下において資本主義体制を擁護する美学としてこそ台頭したのだ。世界を異化する意志がポップに必要ないのは、だからこそ当然のことだ。ポップは資本主義こそが美しい、と暗黙に主張する。」(188頁)と示している。


 

昨日の対面授業 賈樟柯「罪の手ざわり」天注定 大海の話

3限 演習 センさんの卒論発表 テーマは変ったが、興味深い問題を扱う。大躍進、文革

4限 特殊講義 山本さんの発表 賈樟柯「罪の手ざわり」について。概要と興味深いシーン。マリア絵画、尼さん、放生など宗教的な部分。

大海の話、山西の炭鉱の話の部分を観る。

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天注定 大海

 

Political pop Art and Cynical realism 1990年代 挫折と虚無感

2限 文化論2 

ポリティカル・ポップ・アート、シニカル・リアリズム、キッチュ―心覆うあきらめ

 

 関を切ったかのように噴出した様々な中国現代アート六四天安門事件の絶頂を最後に終息した。「結局我々は政治権力に対して全くの無力だった。それは毛沢東時代の「従順」と変わりはしない。」という諦観が人々の心を覆った。激しい情熱の消えた後には空っぽな心だけが残る。一切が空虚なものに映る。

  こうした状況下の1993年、香港の漢雅軒ギャラリーで開催された「ポスト八九中国新芸術展」が六四以降の動向を見据えている。その代表的な方向とは「政治的ポップ・アート」と「シニカル・リアリズム」だった。

 政治的ポップ・アートは前述のように「雪解け」前後、ソ連に登場する「ソッツ・アート」に共通する。例えばアレキサンドル・コソラポフは赤地に白でレーニンの肖像とコカ・コーラの商標を並べた(「レーニン・コカコーラ」1980)。赤は共産党コカ・コーラの赤、社会主義の記号と西側の消費の記号を混在させ、政治的な抑圧と経済活動の自由という逆行するベクトルをみせる。

 

こうした表現は冷戦の時代、アメリカのポップ・アートにも見出せる。例えばロバート・ウォーカーは「ナイス・アンド・イージー」(1976)で文革中のプロパガンダ・ポスターにヘアカラーの広告を並べている。この場合の記号の混在は、社会主義と資本主義両陣営のプロパガンダ戦略の解消を意図していた。

 中国の政治的ポップ・アートの場合、表層的にはアメリカやソ連の例に共通するがその詳細は多少異なる。冷戦の時代に世界を分断したイデオロギーが、中国一国で抱え込んでいること、つまり「共産党が資本主義をやっている」こと。さらにその矛盾、分裂が中国人の内心へと深く入り込んでいることを示している。

 王広義(ワン・グァンイィ)の大批判シリーズは革命の記号である「工農兵」が毛沢東の本を持って突進する[1]。[図14]その批判の矛先は西側の消費の記号、コダックフィルム。だが西側の消費社会は今や政府が勧める富貴への道である。経済的に繁栄する今、この突進はドンキホーテのように時代錯誤でひどく滑稽なものにも見えてくる。だがこの狂気はつい最近まで正気だった。資本家は階級の敵、消費は悪だった。過去と現在という時間軸そして今の政治と経済の矛盾、それが分裂した中国人の内心世界を露出している。作品のもつ意義は20年たつ現在でも色褪せることなく、却って批判性を強めている。 

中国の政治的ポップ・アートはポップ・アートを芸術批判として誤読し、この批判的方向を政治権力の否定へと向かわせたのである[2]。だが次第にその反逆性は去勢され、資本主義消費社会の快楽へと向かっていく。結果的には、政治的ポップ・アートは借用した元のアメリカン・ポップ・アートの文脈へと逆戻りしてしまう。政治的ポップ・アートの双生児シニカル・リアリズム、彼らの大半は1960年代に生まれ、1980年代に美術大学を出た現代アートの第三世代に当たる。「星星画会(シンシンホアホェイ)」ら第一世代は文革直後の文化的な荒廃の中、人間性の回復、表現の自由民主化を訴えた。「八五美術運動」の第二世代は、西洋モダニズムの実験を繰り返し、西洋現代思想によって遅れをとった中国を救済しようと考えた。彼ら第三世代は西洋モダニズムの手法が全て出尽くした「中国現代美術展」を目にし、六四天安門事件を経験する。六四の挫折が、理想主義やヒロイズムを払拭する。彼らは政治性を含む中国の現実を回避し、内向的な傾向と虚無感を増していく。例えば方力鈞(ファン・リィジュン)の描く「浮遊する身体」は、自らが頼りなく、拠り所をもてない彼らの精神世界を代表するだろう。

シニカル・リアリズムは中国語で「玩世」現実主義。虚無に浸り冷ややかに世間を傍観する。物事を茶化して不遜(ふそん)に振る舞う態度。気だるく、アンニュイな雰囲気。代表的な作家には方力鈞(ファン・リィジュン)や王勁松(ワン・ジンソン)らがいる。

 方力鈞(ファン・リィジュン)は欠伸をしているのか叫んでいるのか分からないスキンヘッドの歪んだ顔の人物像、異常なまでに澄んだ青空、狂ったように咲く赤いバラを描く。ここに空間を歪ませる異様な空気を暗示させた。また水中に浮遊する白い身体の連作は行き場のない心象をみせる。彼らには前の世代のような「自由を求め、中国を変えていこう」というヒロイズムは一切なく、無感動な冷ややかさばかりが目立つ。「アートは無力だ」という場所から出発していると言っていいだろう。

 岳敏君(ユエ・ミンジュン)もまたこうした方向性を持っている。真剣に描かれ、また真摯に捉えられてきた名画を同じ顔形の人型で埋め尽くす。「自由は民衆を率いる」(1995)[図15]は当然ながらドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」[図16]をベースにしている[3]。またナポレオンのスペイン侵略に素手で立ち向かった民衆が処刑される場面を描いたゴヤの「1808年5月3日」をベースにした作品もある。やはり同様に皆大口を開いて笑っている。こうした空っぽな人型は古典的な絵画のもつ「アウラ」(作品の放つ力)を一切排除している。画面が同じ構図であるにも関わらず、革命・戦争の中での人々の劇的な高揚は冷淡なパロディーへと冷却される。それは一時の安逸に浸る我々自身の姿とも重なってくる。

1990年代の時点で表面的には革命伝統を消化したといえるのではないだろうか。だが内面において革命伝統が、現実を批判的にみる別の価値観として生長していったことは歪めない。それが現代の課題としてくすぶり続けているのが現状といえるだろう。

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Andy Warhol in China 1982

 

[1]王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993 現在も政治的ポップ・アートの先達として活躍している。

[2] この時期の作品を扱ったものに『アジアの美術 福岡アジア美術館のコレクションとその活動』美術出版社1999・『亜細亜散歩』展カタログ、資生堂水戸芸術館2001などがある。

[3] 岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供。岳敏君(ユエ・ミンジュン)は方力鈞(ファン・リィジュン)と共に現在、美術市場で高値を付ける作家として名高い。

 

第一章図版の出所

1、劉大鴻(リウ・ダァホン)「四季」(左から春、夏、秋、冬)1991年 油彩、キャンバス 各70×40c任卓華(レン・ヂゥオホア)主編『後八九中国新芸術』香港・漢雅軒hanart TZ Gallery 1993年

2、劉春華(リウ・チュンホア)ほか集体創作「毛主席安源に行く」『解放軍画報』1968年第1期 1月10日表紙

3、江豊(ジアン・フォン)の木版画「港湾労働者」(1931年)。小野田耕三郎編『魯迅収蔵中国木刻集』環翠堂1981年 李允経『中国現代版画史』山西人民出版社1996年10月

毛沢東様式や文革が中国を覆う前の作品。コルビッツの「織物労働者の行進」などから社会主義的な表現を学んだ跡がうかがえる

4、ケーテ・コツビッツの銅版画「織物労働者の行進」(1897年)<Prints and drawings of Käthe Kollwitz >Dover Publications,Inc.1951初版1969年版 北京魯迅博物館編『北京魯迅博物館蔵画選』天津人民出版社1986年 コルビッツは19世紀後期から20世紀前期に活躍したドイツの美術家。19世紀末の労働者が強いられた過酷な勤務や生活の実態を銅版画に描き出し、プロレタリア芸術の先駆者となった

5、「毛主席、世界の革命的人民は無限にあなたを熱愛する」『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月

6、毛沢東ポスターの一例「世界人民よ、団結しよう、アメリカ帝国主義ソ連修正主義、各国の反動派を打倒しよう!」1970年『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月

7、「ジープに乗った毛沢東」『解放軍画報』1967年第9期および第24・25期5月10日と10月20日

8、黄鋭(ホアン・ロエイ)「白毛女」1980年頃 DOC(K)S.NO.41-45 Poèmes et art en chine:‟non officiels”(C.D.E.:Sodis) HIVER 1981-1982 France

9、王克平(ワン・クァピン)「偶像」 1978年 木彫 高さ67cm 香港科技大学芸術中心『王克平(ワン・クァピン)作品』1997年

10、王広義(ワン・グァンイィ)「毛沢東 赤格子1号2号」(1988年):成都;孫玉涇所蔵 呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年

11、魏光慶(ウェイ・グァンチン)ら「自殺計画」(1988年湖北省武漢)呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年

12、王度(ワン・ドゥ)ら南方芸術家サロンによる「第1回実験展」(1986年・広東省広州)でのパフォーマンスGao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998

13、黄永砅(ホアン・ヨンピン)「『中国絵画史』と『現代絵画簡史』を洗濯機で2分間攪拌した」(1987年・福建省アモイ)Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998

14、王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993

15、岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年

16、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供

1限 中国語1b 16課復習+

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁     左 小 祖 咒 Zuǒ xiǎo Zǔ zhòu

 

nà gān qiāng bèi nǐ rēng liǎo

那 杆 枪 被 你 扔 了

wǒ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér

我 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿

wǒ xū yào tā qù shā mǒu gè rén   zài zuó tiān

我 需 要 它 去 杀 某 个 人   在 昨 天

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

 

 

dāng wǒ tuī kāi nà shàn mén

当 我 推 开 那 扇 门

xiǎng kàn kàn yǒng héng róng guāng de zhuàng jǐng

想 看 看 永 恒 荣 光 的 壮 景

nà méi yǒu tā men shuō de shí yòng jiē tī   rán ér wǒ

那 没 有 他 们 说 的 实 用 阶 梯   然 而 我

yòu bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

又 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

 

 

nà bǎ jí tā nǐ ná huí lái liǎo

那 把 吉 他 你 拿 回 来 了

nǐ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér

你 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿

wǒ xū yào tā lái gē chàng   zài jīn tiān

我 需 要 它 来 歌 唱   在 今 天

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

 

 

zài wǒ zǒu chū nà shàn mén

在 我 走 出 那 扇 门

sī xià mǒu běn shū de èr bǎi wǔ shí èr yè

撕 下 某 本 书 的 二 百 五 十 二 页

tā yòng hēi sè xiāng jīn zhè bān dì xiě zhe  

它 用 黑 色 镶 金 这 般 地 写 着 :

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng

我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁

 

ライフルをお前は放り投げた
そいつを使えないとは俺も言ってはいない
誰かを殺すためにそいつが要る 昨日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない

永久不変の壮麗なる光景を見ようと
あのウェスタンドアを開けたとき
やつらの言った実用階段はなかった そして俺は
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない

ギターを持ってお前は帰ってきた
そいつを使えないとはお前も言ってはいない
俺は歌うためにそいつが要る 今日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない

俺がウェスタンドアから出て行くとき
ある本の252ページを引き裂いた
そこには金の縁取りの黒文字でこう書かれていた
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない

shukousha.com

 

昨日の対面授業 悲情城市

演習 松本さん発表 ヘンデルとグレーテル 魔女と鬼 森の恐怖 口承文学から 登場人物の変化 宗教性 などについて、活発に話し合えた。

特殊講義 佐藤さんの発表 悲情城市 1947年二二八事件 日本統治時代から国民党外省人本省人の対立へ 政権の腐敗不正 台湾の民主化は長い道のりがあってやっと実現したこと。

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悲情城市

 

八五美術運動 幸せな80年代?

2限文化論2 

黄永砅が昨年2019年に亡くなったことを学生の人に聞いた。残念に思う。

質問や意見がよかった。80年代にポップアートの萌芽を指摘。赤と黒と白の色彩。絶望を内包していたこと。

 

「85美術運動」は押し寄せる西欧モダニズムの情報に体制側が懐柔を示した結果現れた全国的な美術運動だった。王広義、舒群ら東北「北方芸術群体」、盛奇ら「観念21」、張培力、耿建翌らの浙江省「85新空間展」「池社」、黄永砅らの「アモイ・ダダ」、王度らの広州「南方芸術家サロン」など中国全土に様々な芸術集体が発生する。1989年2月、これら集体が終結し、体制的美術家を中国美術館から排除して、中国現代芸術展が開催されたが、肖魯・唐宋がパフォーマンス『銃撃事件』で実弾を発射、警察に逮捕された。この事件は4カ月後の「六四」の前哨となった。また他方では徐冰、呂勝中、隋建国らが体制内で現代アートの実験を展開していった。

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唐宋+肖魯「銃撃事件」1989

1限 中国語 14課15課をやりました。次回は16課です。今日先生が口ずさんだ曲。

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