2限 文化論2
ポリティカル・ポップ・アート、シニカル・リアリズム、キッチュ―心覆うあきらめ
関を切ったかのように噴出した様々な中国現代アートも六四天安門事件の絶頂を最後に終息した。「結局我々は政治権力に対して全くの無力だった。それは毛沢東時代の「従順」と変わりはしない。」という諦観が人々の心を覆った。激しい情熱の消えた後には空っぽな心だけが残る。一切が空虚なものに映る。
こうした状況下の1993年、香港の漢雅軒ギャラリーで開催された「ポスト八九中国新芸術展」が六四以降の動向を見据えている。その代表的な方向とは「政治的ポップ・アート」と「シニカル・リアリズム」だった。
政治的ポップ・アートは前述のように「雪解け」前後、ソ連に登場する「ソッツ・アート」に共通する。例えばアレキサンドル・コソラポフは赤地に白でレーニンの肖像とコカ・コーラの商標を並べた(「レーニン・コカコーラ」1980)。赤は共産党とコカ・コーラの赤、社会主義の記号と西側の消費の記号を混在させ、政治的な抑圧と経済活動の自由という逆行するベクトルをみせる。
こうした表現は冷戦の時代、アメリカのポップ・アートにも見出せる。例えばロバート・ウォーカーは「ナイス・アンド・イージー」(1976)で文革中のプロパガンダ・ポスターにヘアカラーの広告を並べている。この場合の記号の混在は、社会主義と資本主義両陣営のプロパガンダ戦略の解消を意図していた。
中国の政治的ポップ・アートの場合、表層的にはアメリカやソ連の例に共通するがその詳細は多少異なる。冷戦の時代に世界を分断したイデオロギーが、中国一国で抱え込んでいること、つまり「共産党が資本主義をやっている」こと。さらにその矛盾、分裂が中国人の内心へと深く入り込んでいることを示している。
王広義(ワン・グァンイィ)の大批判シリーズは革命の記号である「工農兵」が毛沢東の本を持って突進する[1]。[図14]その批判の矛先は西側の消費の記号、コダックフィルム。だが西側の消費社会は今や政府が勧める富貴への道である。経済的に繁栄する今、この突進はドンキホーテのように時代錯誤でひどく滑稽なものにも見えてくる。だがこの狂気はつい最近まで正気だった。資本家は階級の敵、消費は悪だった。過去と現在という時間軸そして今の政治と経済の矛盾、それが分裂した中国人の内心世界を露出している。作品のもつ意義は20年たつ現在でも色褪せることなく、却って批判性を強めている。
中国の政治的ポップ・アートはポップ・アートを芸術批判として誤読し、この批判的方向を政治権力の否定へと向かわせたのである[2]。だが次第にその反逆性は去勢され、資本主義消費社会の快楽へと向かっていく。結果的には、政治的ポップ・アートは借用した元のアメリカン・ポップ・アートの文脈へと逆戻りしてしまう。政治的ポップ・アートの双生児シニカル・リアリズム、彼らの大半は1960年代に生まれ、1980年代に美術大学を出た現代アートの第三世代に当たる。「星星画会(シンシンホアホェイ)」ら第一世代は文革直後の文化的な荒廃の中、人間性の回復、表現の自由、民主化を訴えた。「八五美術運動」の第二世代は、西洋モダニズムの実験を繰り返し、西洋現代思想によって遅れをとった中国を救済しようと考えた。彼ら第三世代は西洋モダニズムの手法が全て出尽くした「中国現代美術展」を目にし、六四天安門事件を経験する。六四の挫折が、理想主義やヒロイズムを払拭する。彼らは政治性を含む中国の現実を回避し、内向的な傾向と虚無感を増していく。例えば方力鈞(ファン・リィジュン)の描く「浮遊する身体」は、自らが頼りなく、拠り所をもてない彼らの精神世界を代表するだろう。
シニカル・リアリズムは中国語で「玩世」現実主義。虚無に浸り冷ややかに世間を傍観する。物事を茶化して不遜(ふそん)に振る舞う態度。気だるく、アンニュイな雰囲気。代表的な作家には方力鈞(ファン・リィジュン)や王勁松(ワン・ジンソン)らがいる。
方力鈞(ファン・リィジュン)は欠伸をしているのか叫んでいるのか分からないスキンヘッドの歪んだ顔の人物像、異常なまでに澄んだ青空、狂ったように咲く赤いバラを描く。ここに空間を歪ませる異様な空気を暗示させた。また水中に浮遊する白い身体の連作は行き場のない心象をみせる。彼らには前の世代のような「自由を求め、中国を変えていこう」というヒロイズムは一切なく、無感動な冷ややかさばかりが目立つ。「アートは無力だ」という場所から出発していると言っていいだろう。
岳敏君(ユエ・ミンジュン)もまたこうした方向性を持っている。真剣に描かれ、また真摯に捉えられてきた名画を同じ顔形の人型で埋め尽くす。「自由は民衆を率いる」(1995)[図15]は当然ながらドラクロアの「民衆を率いる自由の女神」[図16]をベースにしている[3]。またナポレオンのスペイン侵略に素手で立ち向かった民衆が処刑される場面を描いたゴヤの「1808年5月3日」をベースにした作品もある。やはり同様に皆大口を開いて笑っている。こうした空っぽな人型は古典的な絵画のもつ「アウラ」(作品の放つ力)を一切排除している。画面が同じ構図であるにも関わらず、革命・戦争の中での人々の劇的な高揚は冷淡なパロディーへと冷却される。それは一時の安逸に浸る我々自身の姿とも重なってくる。
1990年代の時点で表面的には革命伝統を消化したといえるのではないだろうか。だが内面において革命伝統が、現実を批判的にみる別の価値観として生長していったことは歪めない。それが現代の課題としてくすぶり続けているのが現状といえるだろう。
[1]王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993 現在も政治的ポップ・アートの先達として活躍している。
[2] この時期の作品を扱ったものに『アジアの美術 福岡アジア美術館のコレクションとその活動』美術出版社1999・『亜細亜散歩』展カタログ、資生堂・水戸芸術館2001などがある。
[3] 岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供。岳敏君(ユエ・ミンジュン)は方力鈞(ファン・リィジュン)と共に現在、美術市場で高値を付ける作家として名高い。
第一章図版の出所
1、劉大鴻(リウ・ダァホン)「四季」(左から春、夏、秋、冬)1991年 油彩、キャンバス 各70×40c任卓華(レン・ヂゥオホア)主編『後八九中国新芸術』香港・漢雅軒hanart TZ Gallery 1993年
2、劉春華(リウ・チュンホア)ほか集体創作「毛主席安源に行く」『解放軍画報』1968年第1期 1月10日表紙
3、江豊(ジアン・フォン)の木版画「港湾労働者」(1931年)。小野田耕三郎編『魯迅収蔵中国木刻集』環翠堂1981年 李允経『中国現代版画史』山西人民出版社1996年10月
毛沢東様式や文革が中国を覆う前の作品。コルビッツの「織物労働者の行進」などから社会主義的な表現を学んだ跡がうかがえる
4、ケーテ・コツビッツの銅版画「織物労働者の行進」(1897年)<Prints and drawings of Käthe Kollwitz >Dover Publications,Inc.1951初版1969年版 北京魯迅博物館編『北京魯迅博物館蔵画選』天津人民出版社1986年 コルビッツは19世紀後期から20世紀前期に活躍したドイツの美術家。19世紀末の労働者が強いられた過酷な勤務や生活の実態を銅版画に描き出し、プロレタリア芸術の先駆者となった
5、「毛主席、世界の革命的人民は無限にあなたを熱愛する」『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月
6、毛沢東ポスターの一例「世界人民よ、団結しよう、アメリカ帝国主義、ソ連修正主義、各国の反動派を打倒しよう!」1970年『毛沢東歴史視象・経典海報画冊』香港・次文化堂1994年8月
7、「ジープに乗った毛沢東」『解放軍画報』1967年第9期および第24・25期5月10日と10月20日
8、黄鋭(ホアン・ロエイ)「白毛女」1980年頃 DOC(K)S.NO.41-45 Poèmes et art en chine:‟non officiels”(C.D.E.:Sodis) HIVER 1981-1982 France
9、王克平(ワン・クァピン)「偶像」 1978年 木彫 高さ67cm 香港科技大学芸術中心『王克平(ワン・クァピン)作品』1997年
10、王広義(ワン・グァンイィ)「毛沢東 赤格子1号2号」(1988年):成都;孫玉涇所蔵 呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年
11、魏光慶(ウェイ・グァンチン)ら「自殺計画」(1988年湖北省武漢)呂澎・易丹『中国当代芸術史1979-1989』湖南美術出版社1992年
12、王度(ワン・ドゥ)ら南方芸術家サロンによる「第1回実験展」(1986年・広東省広州)でのパフォーマンスGao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998
13、黄永砅(ホアン・ヨンピン)「『中国絵画史』と『現代絵画簡史』を洗濯機で2分間攪拌した」(1987年・福建省アモイ)Gao Minglu(高名潞)< Inside out- New Chinese Art> San Francisco Museum of Modern Art, Asia Society Galleries, University of California Press.1998
14、王広義(ワン・グァンイィ)「大批判 コダック」(1990年)150×100<China Avant-garde>Oxford University Press.1993
15、岳敏君(ユエ・ミンジュン)「自由は人民を率いる」(1995年)呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年
16、ウジェーヌ・ドラクロワ「民衆を率いる自由の女神」(1830年)=オリオンプレス提供
1限 中国語1b 16課復習+
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁 左 小 祖 咒 Zuǒ xiǎo Zǔ zhòu
nà gān qiāng bèi nǐ rēng liǎo
那 杆 枪 被 你 扔 了
wǒ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér
我 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿
wǒ xū yào tā qù shā mǒu gè rén zài zuó tiān
我 需 要 它 去 杀 某 个 人 在 昨 天
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
dāng wǒ tuī kāi nà shàn mén
当 我 推 开 那 扇 门
xiǎng kàn kàn yǒng héng róng guāng de zhuàng jǐng
想 看 看 永 恒 荣 光 的 壮 景
nà méi yǒu tā men shuō de shí yòng jiē tī rán ér wǒ
那 没 有 他 们 说 的 实 用 阶 梯 然 而 我
yòu bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
又 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
nà bǎ jí tā nǐ ná huí lái liǎo
那 把 吉 他 你 拿 回 来 了
nǐ yě méi yǒu shuō wǒ yòng bú shàng nà wán yì ér
你 也 没 有 说 我 用 不 上 那 玩 意 儿
wǒ xū yào tā lái gē chàng zài jīn tiān
我 需 要 它 来 歌 唱 在 今 天
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
zài wǒ zǒu chū nà shàn mén
在 我 走 出 那 扇 门
sī xià mǒu běn shū de èr bǎi wǔ shí èr yè
撕 下 某 本 书 的 二 百 五 十 二 页
tā yòng hēi sè xiāng jīn zhè bān dì xiě zhe
它 用 黑 色 镶 金 这 般 地 写 着 :
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
wǒ bù néng bēi shāng dì zuò zài nǐ shēn páng
我 不 能 悲 伤 地 坐 在 你 身 旁
ライフルをお前は放り投げた
そいつを使えないとは俺も言ってはいない
誰かを殺すためにそいつが要る 昨日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
永久不変の壮麗なる光景を見ようと
あのウェスタンドアを開けたとき
やつらの言った実用階段はなかった そして俺は
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
ギターを持ってお前は帰ってきた
そいつを使えないとはお前も言ってはいない
俺は歌うためにそいつが要る 今日
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺がウェスタンドアから出て行くとき
ある本の252ページを引き裂いた
そこには金の縁取りの黒文字でこう書かれていた
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない
俺は悲しげにお前の傍らに座っているわけにはいかない