牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

艳俗艺术 CHINA KITSCH チャイナキッチュ

1限 中国語 17課 時間曜日の言い方など。

2限 文化論2艳俗艺术 CHINA KITSCH チャイナキッチュ

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羅氏三兄弟 

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第四回、チャイナ・キッチュ―醜い現状 批判と認可

    

1990年代半ば、政治的ポップ・アートの政治性は一挙に去勢され、大衆消費社会の快楽が前面に押し出された。それが中国キッチュである。

キッチュは「まがいもの」、くいだおれ、かに道楽の看板が氾濫する大阪道頓堀あたりのイメージだろう。代表的な作家ジェフ・クーンズ[1]のステンレス製の風船うさぎやパンジーでできた巨大な犬のぬいぐるみ、陶器製のマイケル・ジャクソンチンパンジーのバブルスなどが想起される。巨額を投じて無意味なものをつくる、またこうした無意味なものを愛でるみうらじゅん[2]の様な姿勢をいうのかもしれない。

 作品のオリジナリティーアウラ(作品の放つ力)高尚さを信じた近代美術はこうした享楽的で不遜(ふそん)な遊戯によって全面否定された。醜悪で悪趣味、無意味な反復。彼らにとってアートは大衆の先に立って人々を先導する存在ではない。大衆の後から彼らの好む記号を拾い集め、それを再構成してみせる単なる収集癖のようにもみえる。

 

 中国キッチュは画面にうまそうな中華料理、コーラやスプライト、ハンバーガー、カラオケマイクにケータイ、カメラ、CD、エアロビクスやボディービル、グラビアの水着姿の女性、怪しげな豊胸器具の広告、夢の海外ツアー、かわいいペット、山水画の掛け軸、骨董の壺など雑多なモノを登場させた。これらの品々は我々の欲望の対象である。そしてモノによって我々の人生も評価され、モノを手に入れることが生きる目的ともなる。人とモノとの関係、消費社会の快楽。これらの記号は読み解くことを誘惑する。誘惑に乗って解読をすすめてみたい。

まずいえるのは過剰なあまりにも過剰な表現だ。誰もがこの画面を見たらそう感じるだろう。目を射すような原色の氾濫、荒唐無稽に溢れるモノ、モノ、これらは中国人特有の派手で過剰な幸せのシンボルなのだろうか。

 

 中国キッチュの先達となったのは余友涵(ユィ・ヨウハン)の「毛主席が韶山農民とお話になる」(1991年)[3]だろう。これは1959年、32年ぶりに里帰りした毛の写真を元に、農民の好む花柄プリントを重ねる。政治的ポップ・アートの政治性よりはむしろ意図的なダサイセンス、かっこわるさを重視している。[図5,6]

 1996年、集中的に中国キッチュの美術展が開催される。彼らの根拠地は「通県アーティスト村」である。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズムの「圓明園アーティスト村」が閉鎖された後、彼らは北京市街から東へ50キロぐらいに位置する通県の農村(通県宋荘)に移り住んだ。政治的ポップ・アートやシニカル・リアリズム同様に平面に固執し集団でキッチュな作品=後衛的作品を量産している。

極彩色で、通俗的な水着の美女や様々な商品、中華料理や白菜を描く。大衆の先端に位置して現代アートの過激な実験を展開する前衛的なアートとは対照的に、大衆の後からマス・カルチャーを拾い集め、再構成する。ここには消費社会の新たな大衆への期待と嘲笑、消費文化への賞賛と批判が複雑に入りくんでいる。

毛沢東様式の希望に満ちた農民の姿は理想上のものであり「想像上の客体」でしかなかった。彼ら中国キッチュの作家たちは、こうした毛沢東様式の「正しい」大衆像を拒否し、軽薄な成金農民の姿を悪趣味で醜く描いた。中国キッチュは意識的な学究的姿勢で大衆文化の歴史的な検証を提出していく。彼らは戦略的意図を顕にし、批評家の論争を誘発する。用意された解釈は、ハイ・アートとロウ・アートの境界の解除、自在な盗用、というポスト・モダン的様相だった。だが毛時代の産物にこだわりをもつ点で、依然として毛沢東の呪縛の内にあるとも捉えられかねない。

                      

政治的ポップ・アートの隆盛の後、1996年頃から「艶俗」とよばれる中国キッチュの作品展が続出した。仕掛け人は評論家の栗憲庭。彼らは「通県」アーティスト村で悪趣味で低俗、けばけばしいキッチュな作品を量産した。それらはギラギラとてかる中国料理を描いたものだ。さらにグラビアの女性、ボディービルダー、いかがわしい豊胸機器の広告、憧れのハネムーン海外ツアー、ハンバーガーやコカ・コーラといったジャンクフードなど、消費社会に溢れる快楽の記号を極彩色で描いていく。例えば俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998[4] 。[図7]赤・青・黄・金といった過剰な色の氾濫はポップ・アートの幼児向けの色彩感覚を更に極端化し、黄金への欲望を露呈させる。

胡向東(フゥ・シアントン)の平面作品はボディービルダーや水着女性の背景に白菜を配する。さらにインスタレーションでもプラスチックで白菜を作って本物と並べてみる(「理想栽培」1998年)[5]。[図8]北方では冬場のビタミン源は白菜しかなかった。最近ハウス栽培の普及で年中様々な野菜を口にできるようになった。白菜農家には経営不振で自殺する者も出たという。こうした農村の変容と農民趣味を内在させる。

 白菜にキュウリ、金歯を光らせた成金農民、毛沢東語録、革命模範劇の名場面、これらの記号から何が読みとれるだろうか。中国革命は確かに農民中心の革命だった。そして毛は農民そして農民の美術に学ぶことを美術家に強いた。ではこれを現在にスライドさせれば拝金主義の成金農民に学べということになる。中国キッチュは従来のキッチュを農民のキッチュへと誤読したと言えるだろう。それは毛時代と現在への痛烈な風刺となる。

 羅氏三兄弟は富貴や子孫繁栄といった農民の願いがこめられた新年画(建国後の理想を描いたお正月の版画)をベースに様々な商品を散りばめる(「私の好きな北京の天安門」1996・97年)[6]。[図9]「カワイイ」享楽的な作品だ。しかも漆絵という農民美術の技法さえ盗用している。

  またここに現れた俗悪な成金農民の姿や刺繍や漆絵という農民美術の手法、白菜、黄金や金魚など富貴への願望を示す年画の記号を見れば中国キッチュの意図が見えてくる。それは中国の視点からキッチュを誤読しようとしたことだ。つまり現在の農民の快楽で毛沢東時代の「正しい」農民に反駁した農民キッチュなのである。さらに1930年代の美人画や1950年代の中国新年画の再構成を通して中国キッチュの戦略を見出すことができる。それは1930年代から現在に至る二〇世紀大衆文化史の中に、革命伝統「毛沢東様式」を埋め込もうとする作業である。こうして世界から逸脱した負の遺産毛沢東様式」は大衆美術の一部として消化されたかのように見せる。

中国キッチュは政治家から庶民へとアートを奪い返した。そして醜い中国の現状を客体化してみせた。しかし彼らが大衆消費社会の快楽を描く限り、大衆の側へと親近する。その批判性は常に肯定性を内包させている。作家が如何に批判的に現状を描いたとしても、受け手がどう受け取るかは規定できない、つまり現状を肯定的に描いているものと受け取られる可能性さえあるということだ。つまり中国キッチュは中国現代社会において商業利益が政治意識を瓦解させたかのように見せてしまう。この点については北京大学の戴錦華が良い例を示している。「中国語で「広場」といえば、かつては政治的な事件が繰り返された(1919年の「五四」運動、二度の天安門事件など)「天安門広場」を意味した。だが現在では「広場」が「ショッピング・プラザ」を示すようになった。つまり政治意識が薄れて経済的な繁栄へと庶民の意識は変わっていったというのだ[7]。そうすると中国キッチュはこうした庶民意識に順応したものに過ぎないと見なされてしまう。近代アートへの確執から自由になったはずのポップ・アートを、椹木野衣が「アメリカのポップ・アートが、冷戦時代、資本主義陣営を擁護する結果となった」[8]と示した過去と同様に、現在の中国キッチュも無批判に現状を受け入れ、市場経済下の中国を肯定してしまうことになるのではないか。

 

[1] Jeff Koons 1955-キッチュなイメージを使った巨大が「彫刻」作品で知られるアメリカのアーティスト。

[2] 本名:三浦純 1958-日本のまんが家、イラストレーター、タレント。

[3] 余友涵(ユィ・ヨウハン)「毛主席が韶山農民とお話になる」1991年 167×119 <China Avant-garde>Oxford University Press.1993。元になっているのは「毛主席が韶山農民とお話になる」『解放軍画報』1967年10月増刊号。

[4] 俸正傑(フォン・ヂョンジエ)「ロマンチック・トラベル」1998年110×110 呂澎『中国当代芸術史1990-1999』湖南美術出版社2000年

[5] 胡向東(フゥ・シアントン)「理想栽培Dream Plant」1998年 栗憲庭 策展「酉分苯乙火希」POLY PHENOLRENE The Bow Gallery Catalogue 1 1999/05

[6]羅氏三兄弟による連作「わたしの好きな北京の天安門」(1996-97のうちの一作)65×55 アジア美術館所蔵

[7]戴錦華『隠形書写―90年代文化研究』江蘇人民出版社1999.

[8]注353椹木野衣『シミュレーショニズム』(河出文庫1994年)では「ポップは五〇年代における世界情況、すなわち冷戦下において資本主義体制を擁護する美学としてこそ台頭したのだ。世界を異化する意志がポップに必要ないのは、だからこそ当然のことだ。ポップは資本主義こそが美しい、と暗黙に主張する。」(188頁)と示している。