牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

2014年2月22日栗山明さんからの『アイ・ウェイウェイスタイル』読後感 転載させて頂きます。

牧陽一

 大変に御無沙汰しております、栗山です。
 新著『アイ・ウェイウェイ スタイル』を有り難うございました。早
速拝読させて頂きました。と、言っても昨日の出先への往復の電車車内
でしたので、まだ序文と続く追悼文の部分だけですが。
 でも大変考えさせて頂きました。特に現自民党政権(首相の名字を書
くのもイヤだ)、権力者たちに対する我々のあり方についてでした。例
えば17ページの星星画会の活動の記述に関する部分からは、文化芸術
の自由は正に言論の自由であり、これは民主主義に於ける為政者の質・
度量そのものを量る基準と思います。すると翻って現政権、権力者は特
定秘密保護法を強行裁定し、拳を振り上げながら国会答弁の場で「我々
は正しい」と吐き、異なる意見に対しては「恥ずかしい大人」「サヨク
のひとたち」などと蔑み、NHKに対しても明らかな人事介入、教
科書に関しても自分の思い込みによる介入などが目立ちます。それは同
じ17ページから次の18ページに跨いである、『「中国共産党(自民
党政権)の指導の下」が冠され、党(現政権)による法の私物化(日本
憲法の身勝手な解釈と改憲)〜「極権主義」状態を出現させ』の当り
で強く感じます。
 また85思潮に関するところでも、今、我々は歴史資料や当時の中国
社会の状態を様々な資料から知ることができるからこそ、艾未未さんの
85に対する見解や、我々自身も当時の状況や何故85が誕生したかな
どを検証でき、だからこそ例えば日本のスタジオ食堂との比較検討がで
きる。つまり歴史や資料を隠蔽していないからこそできるわけで、そう
なると秘密保護法が権力者の都合のいいように身勝手に一人歩きし始め
ると、後世への歴史の真摯な受け渡しができなくなる。そうすると後世
への参考資料を隠蔽することであり、それは歴史への、世界への背信
為に他ならないと考えさせられました。
 続く24ページから26ページの記述は非常に刺激になりました。例
えば「彼等は体制の側から許されて活発な活動をした体制内急進派にす
ぎなかった」、この一文は日本刀の刃先のように切れて、この一文だけ
で見事に85の本質を書き表しています。見事と言うほかない。
 24ページ最終部分から始まる「経済の中からどのように〜どのよう
に絶えず自らの合法性を強化するか〜」は、誰か悪人をでっちあげなけ
れば正しい自分たちを演出できない、如何に自己を正当化するかに常に
腐心しなければならない、実は弱い人間である権力者たちの姿そのもの
です。それは「ゆとりのある場所に隠れているだけ」からも読み取るこ
とができますね。またそれは権力者だけでなく、「もしあなたが心から
体制にゆとりがあるなどと思うのなら、あなた方が愚かだ、もしあなた
が気を使ってものを言っているというのなら、恥知らずだ」は、自分自
身の頭で考えることをせず、ただ彼等権力者の美辞麗句を鵜呑みにする
ひとたちへ向けられている、それは現政権を単純に支持する多くの日本
国民へも言えることでしょう。
 何も考えないというのは、実は非常に危険なことと考えます。最近、
映画をやっていたからというのもありますが、ユダヤ系ドイツ人哲学者
だったハンナ・アーレントは、ナチによるユダヤ人大量虐殺の現場で数
百万人の虐殺にゴーサインを出した、元親衛隊隊員のアドルフ・アイヒ
マンの裁判で、「悪の凡庸さ」ということばを使いました。つまりアイ
ヒマンは自分では何も考えることなく、ただ「上官の命令だから」、
「仕事だから」という理由で何も考えることなく機械的に虐殺を行っ
た。そこには“考える”という資質そのものの根本的な欠落があり、何
も考えないことは、とんでもない悪をもたらす可能性があることを指摘
しました。また19〜20世紀のドイツの軍人であり軍事評論家のハン
ス・フォン・ゼークトは人間を軍隊になぞらえ四つに分けました。曰く
「勤勉で頭のいいやつ、これは最高司令官にすべきだ。戦略的な見地か
ら適切な判断を下す。勤勉ななまけもの、これは前線指揮官にすべき
だ。最小の労力で最大の戦果を得るために必死に考える。頭の悪いなま
けもの、これは兵士だ。いくらでもいるし言われたことしかできない
が、目の前の障害を排除する。最後に勤勉な愚か者、これはすぐに銃殺
するか軍隊から追い出すべきだ。何故なら間違ったことでも延々と繰り
返し、気がついたときには手遅れになっているからだ」。つまり盲目的
に現政権に投票し、支持する少なくない日本国民であり、何より現政
権、今の権力者たちに他なりません。
 また同25ページの「アートあるいはアーティストが〜アーティスト
が彼等の利益にも不正にも接触しない周縁にあるからだ」は、勿論、政
治的に日本とは比較にならない厳しい状態に置かれている中国人芸術家
の状況は十分にわかりますが、それにしても政治の現実にほとんど目を
向けない彼等中国人芸術家たちへの私の不満でもあります。しかし文学
では閻連科さんのように、直接的ではないけれど、現在の共産党政権の
独善的なあり方に警鐘を鳴らし、我々文化芸術に携わる立場にあるもの
たちへ自覚を促し続けているひともいます。
 28ページ「中国は私の国だ〜」は、中国を日本に置き換えれば私の
思いそのものになります。私は日本が好きです。愛国心があります。し
かしその好きという気持ち、愛国心は権力者たちが強制するそれでは勿
論なく、それは勿論私の家族であり、友人であり、日本の文化であり、
自然であり、近所の下町の商店街で毎日勤勉に美味しくて安い惣菜をつ
くり続けているお年の召した御夫婦であり・・・。だいたい愛国心なん
て権力者が国民に強制するものではない!そんなことを平然と言い放つ
現政権は、私には家庭内暴力ドメスティック・バイオレンスそのもの
に見えます。配偶者を暴力で支配しながら「自分を愛せ!」という
D.M.。それは国民に対しても諸外国に対しても「多数決で勝ったオレた
ちの言うことを黙って聞いていろ!」と高圧的に支配しようとしながら
「オレたちを支持しろ!」という現政権の性質そのものに、同じ構造に
見えます。その他にも「無法無天」のくだりや、29ページの真ん中あ
たり「普遍的な問題として〜公民の意欲が消失し、社会も停滞する」、
「我々公民自身〜思えてならない」などのくだりからも、現政権との
我々の関わり方への警鐘とヒントが読み取れますね。と、いうことは今
の日本は中国の一党独裁と似て来ているのではないでしょうか。
 でもそんな中でも、同29ページ「特別優れた人間でもなく〜」には
感動しました。私の中ではアンパンマンの作者である、やなせたかし
とつながります。やなせさんは一度も自分を自賛することなく、極限状
態に置かれた戦争体験から、絶対間違いではないことを「それは目の前
で飢えているひとに一切れのパンを差し出すこと」と表現し、あのアン
パンマンを世に出した。そこには「自分も傷つかない正義はない」とい
う、私はこれは本当にそう思うのですが、この一言に結びついています。
 何やらとりとめもなくダラダラと書いてしましましたが、例えまだ序
章だけではありますが、感じることは、艾未未さんの作品、言動、活動
は、共産党政権へのたんなる攻撃や告発、揶揄で終わっているのではな
く、勿論、ドキュメンタリー映画ならば告発で止まっていてもいいのか
もしれませんが、艾未未さんの場合、そこから更に一歩進んで、鑑賞者
にそこから何かを考えさせる力があるのだと思います。そこが違うのだ
と思います。

 本当に有り難うございました。ではまた勉強させて頂きます。

 御家族様、皆様御健康には何卒御留意下さいませ。

栗山