牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

黄鋭のこと 2007年5月21日

  • 黄鋭(ホアン・ロェイ 1952-)のこと

    牧 陽一(現代中国の文学・芸術)

    1981 年夏、初めての北京。僕はいつでもあの日に帰って、一休みすることができる。いつもそこには青い空が広がっていて、乾いた風が吹いている。北京は僕が思うほどお人好しでもないし、優しくもない。でもいつも変わらず僕を受け入れてくれる。
    黄鋭に初めて出会ったのは初めての北京の翌年 1982 年だったと記憶している。中国はまだ社会主義で僕はまだ大学生だった。
    北京語言学院に留学していた。同じ留学生で美しいクラス・メイトに一目惚れした僕は彼女の部屋を訪れた。その部屋には見事な油彩画や皿絵が掛けられていて、それは彼女のフィアンセの作品だったのだが、そのフィアンセというのが黄鋭だった。僕は瞬時に失恋したことを知った。それから黄鋭が教室で学生をモデルにして描いているところに行ったこともあった。僕は教室が暗いから電気を点けたが、彼はすぐに消してしまった。自然光で描くからだったが、僕は無知な行為を恥じつつ、いっしょに描いた。黄鋭の姿は 20 代の僕の甘酸っぱい記憶とともにある。
    翌年、黄鋭の「趙登禹路 64 号」の家で結婚パーティーが開かれた。王克平、馬徳昇、曲磊磊ら星星画会(中国現代アートの先駆的グループ)のメンバーが集まった。棋王、樹王、孩子王三部作で作家として名を成す前の鍾阿城もいた。しにせ料理屋「同和居」から来た若い料理人が腕を振るってかなり豪勢な宴会だった。僕は調子に乗って浴衣に着替えて男ストリップなんぞやっていた。近所の居民委員会(御上と通じていて変な人がいないか監視する人)のおばさんが探りに来ていたから、僕のやっていたことは何とも能天気だった。

    1983 年 8 月には星星画会の最後の美術展が城南の自新路小学校で開かれた。艾青(中国近代詩を代表する詩人)を囲んで星星画会のメンバーが話していたのが印象的だった。彼らが中国の新しい文化を担っているのは確かだった。だがこの美術展も北京市政府によって禁止された。

    翌年 1984 年には王克平、黄鋭の出国が決まっていた。あの夜、馬徳昇は酷く酒を飲み、酷く泣いていた。僕は帰国し、図書館で星星画会の1979年のデモのこと(『読売新聞』1979 年 10 月 2 日のAP電写真には松葉杖の馬徳昇、プラカードを持つ王克平が確認できる。10 月 1 日中国建国30 年の日、星星画会は美術展の禁止に抗議し、芸術の自由と政治の民主化を求めて、長安街をデモ行進した。それは建国以来最初の抗議デモだった。)をやっと知ることになる。さらに発禁になった『美術』1983 年 1 期を見ることもできた。そこには黄鋭、曲磊磊、王克平の作品が 3作ずつ載っている。現在の作品とは隔世の感があるが、確かに中国現代アート毛沢東様式を脱してスタートしていたのである。
    2006 年 4 月、北京大山子芸術区「中国当代画廊」で黄鋭個展が開催された。「毛主席万元」は「毛主席万歳!」の文字を人民元紙幣 1 万元分でつくっている。作品は 6 万ドルで売れたらしい。黄鋭は毛主席万歳!を紙幣で作るというアイディアで 1 万元を 40 万元に変えた。正に何を買っても値上がりするバブル経済そのものを金が金に変わるという作品で表現したといえる。そして毛沢東崇拝から拝金主義、バブル経済へとまい進する現代中国の矛盾をえぐり出した。だがこの中心になる当作品が展示を禁じられた。美術展では全体に紅い幕がかけられていた。黄鋭は作品展示、禁止、販売までのすべての工程を作品化したといえる。
    黄鋭「鄧小平の女」もまた批判されている。こちらは確信犯といっていいだろう。「鄧小平の女」は「一個中心,両個基本点。抓両頭,帯中間。(1987 年 10 月の第 13 回党大会で提起された党の基本路線)1 つの中心とは経済建設、2 つの基本点とは改革・開放政策と四つの基本原則(社会主義の道、人民民主独裁、共産党の指導、マルクス・レーニン主義毛沢東思想)。抓両頭,帯中間は先進と後進の両端をつかんで、中間的大多数を導くこと。)」というゴチックの文字を女の裸の落書きのように並べた作品である。社会主義の道を忘れ、「経済活動」(金儲け)にばかり走る党を皮肉ったものだろう。
    黄鋭の「不遜ないたずら」は「共産党独裁の資本主義」を問題視している。
    そして 06 年 12 月、798 大山子芸術区の中心的アーティスト、当国際芸術節の芸術プロデュ-サー
    である黄鋭に対して、798 芸術区物業管理部門「七星集団物業中心」から退去命令が出された。理由など詳細は明かではないが、大山子の建物の借料が 3 倍に跳ね上がったという。かつての廃墟、大山子 798 工廠は観光地と化し日本からツアーが組まれるほどの集客凄まじい金のなる木となった。当局は一層の収益を狙っている。芸術区最大の貢献者を追い出して、その成果の全てを横取りするつもりらしい。
    僕の友人、反骨のアーティスト黄鋭、僕の研究はここから始まっていて、いつもここに戻ってくる。
    僕の北京は黄鋭のいる北京だ。(平成19年5月21日寄稿)
    『中国現代アート―自由を希求する表現』講談社選書メチエ、2007 年 2 月刊行

    中国現代雑貨毛沢東とコインのウォータードーム(牧研究室蔵)

     

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    北京の現代アート