牧陽一の日記です。

埼玉大学 人文社会科学研究科 牧陽一の授業内容です。表紙は沢野ひとしさんの中国語スタンプです。

 埼玉新聞20170331 研究者の眼 アジア庶民の相互理解を 牧陽一

大学教員は組織の末端現場労働者である。月曜の1限は中国語。朝、7時前に起きて、途中立ち食いそばを腹に放り込む。初日は中国語の高い低い上がる下がる「四声」を踊りでお教えする。みんな大爆笑する。「恥ずかしい?もう、57歳の僕はもっと恥ずかしい」と私。30分後にはお菓子タイムとなり5分ほど休憩する。緩い授業だ。でもこの授業、全員が優で、1年後には芥川賞作家 楊(ヤン)逸(イー)さんのエッセイを原文で読むまでになる。楽しければできる。さて次は大学院、アイ・ウェイウェイやろくでなし子さんの作品、行動を具体的に話して、表現の自由を自ら獲得することについて語り合う。終わったら食事しながら、院生の論文構想を練る。考えてみれば1年生から博士後期課程の3年まで9学年、こんな幅で教えるのは小学校以上ではないか。
 ではなぜこんな過酷な労働をするのか?研究も教学も直截的ではないが一種の自己表現だと思うからだ。意見が違ってもいい、現場で語り合い、材料を集め、調査し、翻訳し、まとめていく。そのプロセスを具体的に示しながら、説得力のある文章表現を伝えていく。そして次の世代が巣立っていく。教育というほどのものではない。伝播に近い。判断の例、態度を示すのだ。
 研究は中国演劇から現代アート、映画などけっこう広範になるが、いつも自分に何ができるのかという問いに答えるようにやってきた。誰もやらないもの、一人隙間産業だ。1979年、大学入学、日中友好ブームに乗っかるように中国語を学び始めた。中国で何年も生活して、多くの中国人にお世話になってきた。だから本音の部分で中国に恩返しをしたい。それは庶民が大っぴらに正直なことが言えない現在の独裁政権を批判的にとらえること。そして庶民の側の見方から、少しでも暮らしやすい自由な市民社会をつくる手助けになる文を書き続けることだ。それは翻って日本の社会も同様だ。
 私の敬愛する画家 沢野ひとしさんは、中国で反日デモが盛んになった時期、頻繁に中国旅行し、珠玉のエッセイを書いている。私は見習うべきだと思う。政府関係の悪い時にこそ民間の相互理解を深める必要がある。我が教養学部日本アジア文化専修では、韓国中国からの留学生を多数受け入れ、日本からは韓国中国留学を進めている。韓中日、東アジアの学生と様々な問題について語り合う。日本の歴史認識問題、中国の民主化や人権問題、韓国の慰安婦像問題、どの問題も民意ではなく政治家のエゴに映って仕方がない。それぞれの政府の閉鎖性、独善性が見える。私たちの教室では、大方の「国際的見方」を得ることができる。間違っている部分は間違っているし、正しい部分は正しい。互いに尊重しあい客観的に考えられる。
 「実はこの世界はとても単純なものだ、世界全体で二つの努力をしている、一つは真相の究明で、もう一つは真相の隠蔽だ。」とアイ・ウェイウェイはいう。私たちは究明する側にあるはずだ。